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◇ マイヤーリンク 「うたかたの恋」 さて、この日の残り時間も少なくなってきましたが、がんばってルドルフ皇太子とマリー・ヴェッツェラが心中したマイヤーリンクに行ってみることにしました。 ウィーン南駅からSバーンでメードリンク移動するんですが、勝手が分からず時間をロスしました。 メードリンク駅前にいたタクシーに「マイヤーリンク・ハウマッチ?」と聞いたら「80ユーロ」という返事。 1万円超ではありませんか(@o@)。 ちょっと逡巡しましたが、マイヤーリンクに行けるのも今回が人生一度のチャンスかもしれません。 そう考えると、ある程度の出費にも目をつむるしかありません。
子ルドルフ(30歳)が、17歳の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラと、 マイヤーリンクの狩猟用別邸でピストルによる心中自殺をしま した。 時間経過を追ってみます。 1月26日、父フランツ・ヨーゼフ皇帝と激しく言い争い、「おま えは、わたしの後継者として相応しくない」とまで言われたルド ルフは自殺を決意します。 1月27日、ルドルフは皇帝の厳命でドイツ大使が開催したド イツ皇帝ヴィルヘルムの誕生日を祝うパーティに出席しました。 会場でルドルフは大外科医テオドール・ビルロートと長く話し 込みました。 ルドルフとビルロートは看護婦養成学校の設立を目指す「ル ドルフ協会」を通じ、親しい関係だったのです。 ビルロートはこの日のルドルフに特に異常を感じませんでした。 1月28日、ルドルフは王宮で家族、友人に宛て遺書を書き、 マイヤーリンクに向かいました。 1月29日、ルドルフは友人ホヨス伯爵と夕食をとり、10時過 ぎに寝室に入りました。 寝室ではマリーが待っていました。 二人は最後の手紙を書きます。 エリザベート皇后への手紙には「わたしは、彼の息子として相応しくありません」と書かれていたそうです。 父フランツ・ヨーゼフ皇帝に宛てての遺書はありませんでした。 そして翌30日の朝6時10分、ルドルフの寝室で2発の銃声が響きました。 その後の経過については略しますが、悲劇のあった狩猟用別邸はカルメル会尼僧の修道院に建て替えられました。 さて、雪の積もる山道を走ること3~40分。 ハイリゲンクロイツ教会を過ぎ、一山越えたところにマイヤーリンクの村がありました。 寂しい雪景色でしたが、かつてルドルフとマリーが訪れたマイヤーリンクもこのような雪景色だったのでしょう。
カルメル会修道院は村の手前に建っていました。 二人が心中した2階の寝室に合わせ祭壇が作られたそうです。 奥の部屋にはマイヤーリンク事件の展示がありましたが、ドイツ語なので詳細不明です (^_^;。
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