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ミュンヘンに戻って、時間のある限り「音楽史跡巡り」を続けます。 まずは ALTHEIMER ECK..16 にあるリヒャルト・シュトラウスの生家跡。 リヒャルト・シュトラウスは、1864年6月11日に、ミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者であったフランツの子として生まれました。 ここは街の中心部で、ガレージの壁に全く目立たないプレートが掛けられていました。 僕がここに来ることが出来たのは、福原信夫さんの名著「ヨーロッパ音楽旅行案内」のおかげ。 この本は、つねに僕の教科書です。
多くの人が行き交う SENTLINGER Str を通ると、SENTLINGER Tor があります。
SENTLINGER Tor を抜けると、そこにミュンヘン大学病院があります。 森鴎外や斎藤茂吉はこの場所でドイツ医学を学んだのでしょうか? 陸軍軍医であった森鴎外は1884(明治17)年10月(23歳)〜 1888年9月、陸軍衛生制度、衛生学研究の目的でドイツに留学しました。 彼は1886年3月から1887年4月までミュンヘンで学び、1886年6月13日のルートヴィヒ2世溺死事件を題材として、1890(明治23)年『うたかたの記』を発表しました。
大学病院はいくつかの建物に分かれていて、こちらは PSYCHIATLISCHE KLINIK。 PSYCHIATLISCHE KULINIK は「精神科クリニック」だから、斎藤茂吉が学んだのはこちらの建物かな? 斎藤茂吉は1921年(大正10年)10月、ヨーロッパ留学に旅立ちました。 茂吉はまずウィーン大学で研鑽を積み、1923年7月、ミュンヘン大学に転学しました。 同年10月、彼は敬愛していた精神学者クレペリンから握手を拒否されるという屈辱を受けました。 第一次世界大戦の敵国であった日本に対する嫌悪感からの行為だったのでしょう。
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