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1791年12月5日、モーツアルトは粟粒疹熱のため35歳で息を引き取りました。 モーツァルトの葬儀は12月6日に、聖シュテファン寺院のクルツィフィクス礼拝堂で行われました。 葬儀を取り仕切ったのは後援者のファン・スヴィーテン男爵でした。 葬儀には親族と限られた友人のみが参加しました。 妻コンスタンツェは葬儀に参列せず、その後17年もの間、墓地を訪れませんでした。 宮廷作曲家モーツァルトにしては異様な葬儀で、コンスタンツェやファン・スヴィーテン男爵には何かを隠蔽しようとする意図があったとしたとしか考えられません。
クルツィフィクス礼拝堂は聖シュテファン寺院の左の奥の角にあり、カタコンベの出口となっています。 壁には「この場所で不滅の WAモーツァルトの遺体が1791年12月6日に聖別された」とのプレートがありました。
モーツァルトの遺体はシュトゥーベン門から市外に出ました。 葬儀に参列した人々はこの門でモーツァルトを見送ったということです。 路面電車の通るリンクにあったはずのシュトゥーベン門跡から市内を見るとカール・ルエーガー広場があります。 そして、市外にはラントシュトラーセ/ハウプトシュトラーセが伸びています。 モーツァルトの遺体はこの道を通ってザンクト・マルクス墓地に運ばれたのです。 その道を通るのが市営バスの74A路線です。
モーツァルトが通った道を通り、作戦通り到着したSバーン「ザンクト・マルクス駅」に、タクシーはいませんでした (@o@)。 まったく予想外の事態です。 仕方がないので案内表示の矢印に従って行くと、巨大な T−Center がありまして、ここでタクシーを捕まえることができました。 ところがこの運転手がザンクト・マルクス墓地を知らないんです。 走りながら携帯電話で場所を確認しています (@o@)。 そこで思いついて、「レーバーシュトラーセ 6−8」と行ってみたところ、すぐに墓地に着くことが出来ました (^_^) 。 やはり、タクシーには番地が有効ですね。 そこは T−Center の近くで、タクシー代が1千円は余分にかかったような気がします (^_^; 。
ザンクト・マルクス墓地は高速道路の下の殺風景なところにありました。 タクシーでそのまままっすぐ進みます。
モーツァルトの墓は、これまた殺風景なところにありました。 この墓はもちろん本物の墓ではありません。 福原信夫先生の『その小路にベートーヴェンが住んでいた』には、1859年にハンス・ガッセルが建立したと書かれており、三雲ひろ太さんの『モーツァルトのウィーン』(JTBキャンブックス)には、ガッセルの祈念碑は没後100年で名誉地区に移され、今ザンクト・マルクス墓地にあるのはアレキサンダー・コーグラーが作った墓だと書かれています。 タクシーの運転手は「俺も携帯で写真を撮ったよ」と喜んでいました (^_^; 。 |