『パリ お墓とオペラの旅』 2011年5月2日(月) 25)ビゼーの墓、ショーソンの墓(ペール・ラシェーズ墓地) |
ここからは、ペール・ラシェーズ墓地の左側を下って、入口に戻りながらお墓参りを続けます。 まずはウージェーヌ・ドラクロワの墓(1798〜1863)。 『民衆を率いる自由の女神』で知られるドラクロワはショパンの親しい友人であり、臨終の場にはいなかったものの、葬列では棺に付き添いました。
ドラクロワの墓の向かいにあるのが、作家オノレ・バルザックの墓(1799〜1850)。 『人間喜劇』『谷間の百合』など。
次はダグー伯爵夫人の墓(1805〜1876)。 フランツ・リストの愛人であり、コジマ・ワーグナーの母親。 しかし、リストはヴィトゲンシュタイン侯爵夫人の元へ去り、娘コジマとも疎遠となりました。 パリ社交界の女主人として、ショパンやジョルジュ・サンドも彼女のサロンを訪れました。 ショパンを巡り、ジョルジュ・サンドと張り合ったとも言われています。
次はオペラ《カルメン》の作曲家ジョルジュ・ビゼーの墓(1838〜1875)。 36歳とはあまりにも若い死でした。 初演は不評だった《カルメン》も再演を繰り返し、ビゼーは次の作品への取り組みを始めていました。 彼の死因は慢性扁桃炎からリウマチ熱、そして心臓弁膜症へと進行した末の、心臓発作だったようです。 ビゼーのお墓には、写真で見慣れた胸像がありませんでした (@o@)。 ネットで検索してみると、2006年の年末に持ち去られたようです。 「パリの墓地」によれば、未亡人のジュヌヴィエーヴは後に再婚し、サロンの女主人として華やかな生活を送ったそうです。 医師となった息子のジャックはプルーストの学友であり、彼に激しい思いを寄せられたが撥ねつけたそうです (@o@)。 ジャックは2度の離婚を繰り返し、子供はなかったのでビゼーの血統は途絶えました。
続いてジョルジュ・エネスコの墓(1881〜1955)。 ルーマニア生まれのヴァイオリニスト、作曲家。 『ルーマニア狂詩曲』が有名でしょうか。
次はジョルジュ=ピエール・スーラの墓(1859〜1891)。 31歳という短い人生にもかかわらず、『グランド・ジャットの日曜日』(シカゴ美術館)などにより、点描派、新印象派として歴史にその名を残しています。
そして最後にエルネスト・ショーソンの墓(1855〜1899)。 ヴァイオリンと管弦楽のための『詩曲(ポエム)』(1896)は大好きです。 ショーソンは裕福な生まれで、妻と5人の子供に恵まれましたが、自転車事故で若くして(44歳)死亡しました。
これで入口まで戻ってきました。 午前10時から午後2時まで頑張りましたが、見つけることが出来ないお墓もありました。 そんなに上手くは行きませんね (^_^ゞ。 |