チロル&ザルツブルク 落ち穂拾いの旅
28)レオポルツクローン城/本館 2012年5月3日(木)

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 朝食時にレオポルツクローン城の本館に入ることが出来ました。
 実に豪華な大広間でしたが、バイキングの内容はそれほどでもありませんでした。
 
レオポルツクローン城 階段の彫像
シャンデリアの輝く大広間 豪華な装飾に較べ食事内容が‥‥


 レオポルツクローン城は1736〜1740年に当時のザルツブルク大司教レオポルト・アントン・エロイテリウス,フィルミアン男爵によって建てられたそうです。

 第一次世界大戦末期の1917年に、ウィーンやベルリンで演出家、プロデューサーとして活躍し「演劇界の帝王」と呼ばれていたマックス・ラインハルト(1873〜1943年)がザルツブルクでの音楽祭開催を考え、祝祭劇場協会を発足させました。

 1918年、ラインハルトは荒れ果てたレオポルツクローン城を購入しました。
 彼は20年にわたりこの館に手を加え、この館は多くの芸術家のサロンとなりました。

 1920年にラインハルト、フーゴー・ホーフマンスタール、リヒャルト・シュトラウスらによって第一回の「ザルツブルク音楽祭」が開催されました。
 この年に上演されたのは、ホーフマンスタール作、ラインハルト演出の演劇『イェーダーマン(江分利満)』のみでしたが、1921年にはコンサートも開かれるようになりました。
 彼らはこのレオポルツクローン城の大広間で、ザルツブルク音楽祭の構想を練ったことでしょう。

2階から見るボート乗り場 あまり天気が良くない


 マックス・ラインハルトはユダヤ人であり、1938年のナチスによるオーストリア併合を受け、イギリス経由でアメリカに亡命しました。
 彼が精魂を込めて飾り立てたレオポルツクローン城はナチスによって接収されました。
 ラインハルトは1943年にニューヨークで客死しました(70歳)。
 第二次大戦後にレオポルツクローン城はヘレナ夫人に返されました。

 戦争が終わって間もない1947年、オーストリアから米国に逃れ、ハーバード大で学んでいた青年がヘレナ夫人に「戦争を二度と起こさないため、世界中の知識人が知的交流をする場を作りたい」と申し出ました。
 この申し出に賛同した夫人は活動のためにレオポルツクローン城を提供し、ザルツブルク・セミナーが生まれました。

 ザルツブルク・セミナーは『サウンド・オブ・ミュージック』のファンが嫌いだったようで、大切なガラスのパヴィリオンを放り出し、敷地内は私有物として立入禁止としていました。
 しかしながら、2006年からホテルとして宿泊可能となり、僕も「落ち穂拾い」をすることが出来たわけです (^_^) 。
 
 
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