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チフヴィン墓地の入口小屋で入場料を払い、英語の地図を受け取ります。 壁に沿って右に進むと、左側にドストエフスキー(1821年~1881年)の墓がありました。
そのまま進むと、「近代ロシア音楽の父」と呼ばれる、ミハイル・グリンカ(1804年~1857年)の墓があります。 グリンカの遺志を継いでロシア国民音楽の五人組が育っていきます。 グリンカは対位法の研究のために滞在していたベルリンで死亡しました。 遺体はペテルブルクに運ばれてチフヴィン墓地に埋葬された。 隣はグリンカの妹、リュドミラ・シェスタコワの墓が並んでいました。 リュドミラ・シェスタコワはグリンカの死後も五人組の後ろ盾となりました。
そこから前方を眺めると、五人組(力強い仲間)とチャイコフスキーの墓が並んでいました。 一番手前にあるのがリムスキー・コルサコフ(1844年~1908年)の墓です。 彼は五人組の最年少でしたが、ペテルブルク音楽院の作曲科教授として、グラズノフなど多くの弟子を育てました。 リムスキー=コルサコフの晩年には日露戦争や「血の日曜日」事件が起きました。 彼も皇帝に反抗し、学生運動を支持したとみなされて音楽院の教授の席を失いました。 リムスキー・コルサコフはサンクトペテルブルク郊外の別荘で、長年患った喘息と狭心症のため死亡しました。 享年64歳でした。
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