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次はミーリ・アレクサンドルヴィッチ・バラキエフ(1837年~1910年)です。 彼はニジニイ-ノヴゴロドに生まれ、貴族学校に通いながらピアノを学びました。 1855年にペテルブルクと移り、グリンカやダルゴムイシスキーと出会いました。 バラキレフはグリンカの遺志を継ぐ五人組のリーダーであり、彼のもとにキュイ(55年)やムソルグスキー(56年)、リムスキー=コルサコフとボロディン(61年)が集結し、「力強い仲間(五人組)」のメンバーが結成されました。 ペテルブルク音楽院を中心に活動していたアントン・ルビンシュタインらの「西欧派」に対して、彼らは「新ロシア楽派」を名乗り、ロシアの現実と民族の志向を表現する国民芸術を目指して、ペテルブルグを拠点に活動を展開しました。 バラキレフは一時活動から離れ、後に復活しましたが、若い頃のような指導力を発揮することは出来ませんでした。享年74歳。
次はセザール・キュイ(1835年~1918年)の墓です。 彼は築城学の権威で、批評家、作曲家として活躍しました。 彼の批評は皮肉で辛らつなものが多く、晩年は孤立していたようです。 1918年3月13日に脳卒中により他界し(享年83歳)、スモレンスクのルター派墓地で、マリヴィーナ夫人(1899年没)のとなりに葬られました。 1939年に遺骸が掘り起こされ、「五人組」の同人を一つの墓地にそろえるために、チフヴィン墓地に改葬されました。
次はモデスト・ムソルグスキー(1839年~1881年)の墓です。 彼は陸軍士官でしたが、作曲のために公務員に転職してしまいました。 晩年のムソルグスキーはアルコール中毒となり、医科大学教授のボロディンの計らいで陸軍病院に入院することが出来ました。 しかし永年の飲酒のため彼の症状は進行しました。 1881年3月28日、画家のレーピンによって有名な肖像画が描かれました。 翌1881年3月29日早朝に彼は死亡しました。42歳になったばかりという若さでした。 1885年11月にチフヴィン墓地でムソルグスキーの墓に建てられた記念碑の除幕式がありました。 52歳のボロディン、50歳のキュイ、48歳のバラキレフ、41歳のリムスキー・コルサコフのメンバーも久しぶりに集まりました。 彼らが集まったその現場に自分が立っていることには、深い感慨がありました。
五人組の一番奥、チャイコフスキーの墓のとなりにあるのがアレクサンドル・ボロディン(1834年~1887年)の墓です。 ボロディンは1856年にロシアの内科・外科アカデミーの医科を卒業し、軍医として働く病院でムソルグスキーと知り合いました。 彼は1857年に医師としての活動をやめ、生化学の研究者として生きていくことになったのでした。 彼は生化学者、教育者としても大変優秀で、また妻の病気など家庭の問題もあり、作曲に時間をかけること出来ませんでした。 1881年3月1日のアレクサンドル2世の暗殺後、アレクサンドル3世による反動の嵐が吹き荒れました。 ボロディンが心血を注いだ医科大学の女子課程も廃止されました。 このことにより、ボロディンが《イーゴリ公》の作曲の時間を取れることになりました。 1887年2月、、ボロディンは大学の仮装舞踏会の途中に急に倒れ、そのまま死亡しました。 死因は大動脈瘤破裂で、54才でした。 ボロディンは医者ですから自分の体調不良は感じていたと思いますが、まさかこんなに早く自分が死んでしまうとは思っていなかったでしょう。
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