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「五人組(力強い仲間)」のメンバーの墓の奥にチャイコフスキーのお墓がありました。 二人の天使の付いた実に立派なお墓です。 チャイコフスキーの急な死については、「ネヴァ川の水を飲んだコレラ説」と「同性愛による自殺強要説」があるそうですが、どちらも疑問点が多いようです。 1893年10月28日、「交響曲第6番」の初演がチャイコフスキー自身の指揮によってサンクトペテルブルグで行われました。 この交響曲は初演後、弟モデストのアイディアにより「悲愴交響曲」と名付けられました。 初演後もモデストの家に滞在していたチャイコフスキーは水道の生水(レストラン説もあり)を飲み、コレラを発症しました。 1893年11月6日に死亡しました。享年53歳。 遺体をおさめた棺はネフスキー通りを通り、チフヴィン墓地に埋葬されました。 チャイコフスキーはクリンに住み、かつてはモスクワ音楽院の教授でしたので、なぜチフヴィン墓地に埋葬されたのか、よく分かりません。 弟モデスト、ウラジーミルがペテルブルグに住んでいたためかも知れません。 急死なのに、5人組の墓の奥に土地が確保されていたのでしょうか?
チャイコフスキーの墓の奥にある建物の壁に、アントン・アレンスキー(1861年7月12日~1906年2月25日)の墓がありました。 作曲をリムスキー=コルサコフに学び、モスクワ音楽院の教授としてラフマニノフやスクリャービンを教えました。 交響曲や室内楽が時々演奏されます。
チャイコフスキーの墓の向かいにアントン・ルビンシュタイン(1829年11月28日~1894年11月20日)の墓が建っていました。 ロシアのピアニストとして初めて世界的名声を博し、1862年ににロシア最初の専門的な音楽教育機関であるサンクトペテルブルク音楽院を創設しました。 チャイコフスキーはその1回生。 1859年にはロシア音楽協会を創設し、ロシアの音楽界を牽引しました。 ヨーロッパの音楽を紹介し、西欧派のリーダーとして、五人組など民族派と対立しました。
チフヴィン墓地にどのようにして音楽家の墓が集められたのか不思議に思い調べてみましたが、まったく分かりませんでした。 グリンカが埋葬されたのが1857年、ムソルグスキーが1881年 ボロディンが1887年、チャイコフスキーが1893年、アントン・ルビンシュタインが1894年、リムスキー・コルサコフが1908年ですか。 |