前へ ホームページへ 紀行トップへ 次へ |
ノヴォデヴィチ修道院は1524年にヴァシーリー3世によって建てられた女子修道院で、皇帝の未亡人や結婚しなかった王女など高貴な女性たちが住みました。 スモレンスキー聖堂などの建物が残り、ユネスコの世界文化遺産に登録されています。
ヒョードル帝はイワン雷帝の息子でしたが、精神障害があり、子孫を残さず1598年1月6日に崩御(41歳)しました。 これによりリューリク朝は途絶えました。 フョードル帝は後継者の指名をしていなかったため、1598年2月17日、摂政ボリスが全国会議でツァーリに選出されました。 しかし、ボリスは妹である皇太后イリーナが住む、ノヴォデヴィチ女子修道院に閉じこもることになります。 こ時代、ノヴォデヴィチ女子修道院の最高位にあったのは先帝フョードルの未亡人である皇太后イリーナ(ボリスの妹)でした。 ボリスはタタール人であり、高級貴族などのライバルが多く、ディミトリー(ヒョードル帝の弟・1591年5月15日殺害)殺害犯の噂が流れるなど不利な立場にありました。 そのためボリスの戴冠に当たっては、民衆の要請を受け入れるという体裁を取る必要がありました。 ・《ボリス・ゴドゥノフ》プロローグ第1場「ノヴォデヴィチ修道院の中庭」 ムソルグスキー作曲、オペラ《ボリス・ゴドゥノフ》プロローグ第一場は、ノヴォデヴィチ女子修道院の裏庭から始まります。。 幕が上がると修道院の中庭をモスクワの人々がうろつき廻っている。 彼らはボリスの戴冠を望む総主教によって集められた貴族や民衆だ。 訳が分からぬまま連れてこられた人々も多い。 ボリスは何度も戴冠を拒むが、ついに戴冠を受け入れる事となる。 イリーナの屋敷は、度重なる戦乱や内戦にもかかわらず、残っていました。 足場が組まれていたので、再建計画があるのかもしれません。 この館にボリスが住み、館の前の広場で、民衆はボリスに戴冠を訴えたのでしょうか。 思ったより狭い広場でした。
|