ホームページ 気まぐれ紀行03 東北旅行の目次 仙台/瑞鳳殿・青葉城 |
◇ 山形県上山市 斎藤茂吉記念館 JR奥羽本線で山形駅から2つ手前に「茂吉記念館前駅」(無人駅)があります。駅の後ろは明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られた「みゆき公園」となっており、その一角に「斎藤茂吉記念館」が建っています。この記念館は、茂吉十三回忌を記念して昭和43年に開館、平成元年に大幅な増・改築がなされました。
◇ 山形県上山市金瓶(かなかめ)・茂吉の生家 記念館から茂吉の生家がある金瓶までは、徒歩で20分ほど。生家には「茂吉の生家」という大きな看板が掛かっていました。 斎藤茂吉は明治15年(1882年)5月14日、山形県南村山郡金瓶村(現上山市金瓶)に、父守谷伝右衛門と母いくの三男として生まれました。 上山尋常高等小学校を首席で卒業した14歳の茂吉は、東京で浅草医院を営んでいた親戚の斎藤紀一に迎えられることになり、上京しました。 そして開成尋常中学校、第一高等学校、東京帝国大学医科大学と進学した茂吉は、昭和38年7月、紀一の次女てる子の婿養子として入籍、正式に斎藤家の一員となり、精神科医への道を進みました。 そして「アララギ」に属し、歌人としての活躍を始めました。
母屋は改築されたということですが、ここが茂吉の第一歌集『赤光』の連作「死にたまふ母」の舞台となった家なのです。 大正2年(1913年)、生母いく(58歳)危篤の報に接し、茂吉は故郷へ向かいます。 「みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげる」 いくは一週間に及ぶ茂吉の献身的な看病の後、脳溢血で死亡しました。 「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり」 茂吉の生家の隣は、彼が学んだ金瓶尋常小学校、そしてその隣が宝泉寺です。茂吉は第四十世住職佐原窿応(りゅうおう)に習字や漢文などを学び、その教えは茂吉の精神形成に決定的な影響を及ぼしました。
茂吉は終戦も間近の昭和20年4月に、金瓶の斎藤十右衛門方に疎開しました。 5月25日、青山の病院と住宅が空襲のため焼失しました。 6月10日には妻輝子と次女昌子も金瓶にやって来ました。 昭和28年2月25日、茂吉(70歳)は心臓喘息のため新宿・大京町の自宅で死亡しました。 遺体は28日、幡ケ谷火葬場で火葬にされ、遺骨は2個の骨壷に分骨され、青山墓地と宝泉寺に納められました。 宝泉寺本堂左手奥にある茂吉の墓は「茂吉之墓」とだけ彫られています。 これは生前茂吉自身の筆になるものです。 裏面には、これも茂吉が生前に考えた戒名「赤光院仁譽遊阿暁寂清居士」が刻まれています。 茂吉の墓の右には窿応和尚の墓が並んでおり、左手には茂吉が生前植えたアララギが立っていました。
生家から500メートルほど離れた田んぼの中に母を火葬した「金瓶火葬場跡」があり、茂吉の歌碑が建っています。 「灰の中に母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり」 ここからは金瓶の部落の向こうに蔵王連峰が見えるはずなのですが、今年のお盆休みは全国的に天候不順で、まったくその姿を望むことは出来ず、無念でした。
|