県庁めぐり・和歌山 & 華岡青州の旅 (3/20〜21)
6) 「医聖」華岡青州  04年3月21日(日)

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◇ 「医聖」華岡青州

 華岡青州は1760年10月23日、今の和歌山県那賀郡那賀町平山に生まれました。
 華岡家は代々医家の家系でした。
 青州は23才の時京都へのぼり、吉益南涯について医学や儒学などを修めました。
 華岡家は経済的には豊かではなく、彼を京都に送るために、妹のお勝と小陸が機を織ってその費用に充てたそうです。

 青州はいつの日からか「悪い部分を切り取って病気を治したい」と考えるようになりました。
 しかし、そのためには麻酔薬が必要です。
 三国志に出てくる3世紀の外科医華陀が「麻沸湯」という全身麻酔薬を使って手術をしたらしいと知った青州は「日本の華陀になりたい」と考えるようになりました。

 華陀は曼陀羅華(朝鮮あさがお)を主成分として使っていたらしいことは分かったのですが、その詳細は伝わっていませんでした。
 青州は動物実験を繰り返し、曼陀羅華や当帰など6種類の薬草を組み合わせ「通仙散」を作り上げました。

 動物実験を繰り返し、最終段階の人体実験に協力したのが母の於継と妻の加恵です。
 この実験は成果を上げ、青州は文化元年(1804)10月13日に、大和五条の藍屋利兵衛の母「勘」に対し、世界で初めて全身麻酔下の乳がん手術を行い、成功しました。

 米国のクラークがエーテル麻酔で抜歯を行い、同じく米国のロングがエーテル麻酔を用いて頚部腫瘍の摘出を行ったのは、それより約38年後の1842年でした。

 しかし、実験の副作用のためか加恵の視力は衰え、ついに失明してしまいます。
 このエピソードは和歌山市出身の小説家有吉佐和子の「華岡青州の妻」により広く知られるようになり、杉村春子主演の文学座の舞台は大ヒットをしました。

 以後、青洲は「通仙散」を使って様々な疾患に対し手術を行いました。
 華岡青洲の名は全国に知れ渡り、患者や入門を希望する者が、平山に殺到しました。
 青洲は、門下生の育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設けて、千人以上の門下生を育てました。

 1802年に青州は紀州藩主徳川治宝に召されて侍医になるよう求めらましたが、「私は一般庶民の病気を治すことを自分の使命と心得ていま。侍医になると自分の使命が果たせなくなります」といって、これを辞退しました。

 その7年後には「小普請医師格」に任用され、その2年後には「小普請御医師」に昇格しました。
 これを機会に青州は和歌山にも診療所を開設しまし、そして1833年には「奥医師格」15人扶持となりました。
 1835年(天保6年)10月2日、青洲は76年の生涯を閉じました。

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