秋田・青森 2004年8月14日(土)
2) 久保田城趾と川反(かわばた) (南木佳士の旅)

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 佐竹氏は源氏の流れをくむ名門ですが、関ヶ原合戦後の国替えで、佐竹義宣は常陸から秋田に転封されました。
 1603年(慶長8年)義宣は久保田の地に新たに城を築き始めました。
 そして12代義堯(よしたか)が明治維新を迎えるまで、267年を藩主として過ごしました。
 明治4年、久保田の名前は秋田と改められました。

 佐竹氏の居城であった久保田城は、今では千秋(せんしゅう)公園となっています。
 佐竹資料館にも寄ってみましたが、佐竹のお殿様が書いた日本画が並んでいました。

 南木佳士の時代、付属病院はまだ基礎杭が打たれただけの状態で、臨床実習(ポリクリ)は城跡公園の前にある県立中央病院で行われました。
 その県立病院は、今では脳血管研究センターとなっていました。

久保田城長坂御門 佐竹義堯(12代藩主)
佐竹資料館 秋田県立脳血管研究センター


 小宮雄二は城跡公園に近いアパートに住み、川反(かわばた)と呼ばれる飲屋街に出没し、「おかめ」という小料理屋の出戻り娘との間に子供が出来、不本意ながら学生結婚することになります。
 「医学生」では川反について「雄二が生まれた新潟にも、浪人時代に住んでいた新小岩にもこれだけ規模の大きな飲屋街はなかった」と書かれています。

 その川反は竿灯大通りに近く、大きな料理屋からファッションヘルスまで大小の店が立ち並び、 「花柳界として東北一の繁栄を誇った歴史と伝統」(医学生)を感じさせる歓楽街でした。
 まあ、昼間に歩いても面白くありませんでしたがね (^_^ゞ。

竿灯大通り 竿灯の人形
川反通り 川反夜遊びガイド
旭 川 秋田名物 稲庭うどん


 これで秋田観光はおしまい。
 秋田名物「稲庭うどん」を食べて、秋田新幹線「こまち」で角館へ移動します。
 途中の車窓から太平山(たいへいざん)の裾野が見えました。
 秋田を嫌い抜いた南木佳士ですが、秋田の海と太平山には心を癒されたようです。

秋田新幹線「こまち」 太平山の裾野が見えた


 「医学生」のエピローグでは、卒後15年の4人それぞれの生活が書かれます。
 今野修三の「マニュアルに若干の経験を加えて診断、治療をする。治るものは治り、治らないものは治らない。よほど鈍感な医者でない限り、自分が神でないことを知るのは早い」という述懐には、しみじみと心惹かれるものがあります。
 

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