秋田・青森 2004年8月14日(土) 3) 角館 (小田野直武と解体新書) |
秋田新幹線「こまち」は、1時間足らずで角館に到着しました。 角館は「武家屋敷通り」の枝垂れ桜が有名ですが、僕は「解体新書」の挿絵を描いた小田野直武に興味がありました。 小田野直武についての展示は「角館歴史村・青柳家」にありました。 小田野直武と青柳家は姻戚関係にあるそうです。 青柳家は、はじめは芦名家、次いで佐竹氏に仕え、主君の繁栄を支え続け、明治になっては角館の経済を率いました。
小田野直武は寛延2年(1749年)、角館城代・佐竹義躬(よしみ)の槍術指南役を勤めていた小田野直賢(なおかた)の四男として生まれ、幼い頃から画才で頭角をあらわしました。 秋田藩は安永2年(1773年)に、阿仁鉱山の検分と増産のため、平賀源内を招きました。 平賀源内は高松藩出身で、摩擦発電機のエレキテルが有名ですが、鉱山師(山師)としても名が知られていました。 阿仁銅山の調査に向かう途中、角館御用商人・五井孫左衛門の家に宿泊した源内は、直武の屏風絵を見て驚き、直武を五井家に呼び寄せました。 直武は源内から「鏡餅を真上から見た図を描くように」と言われ、二つの円を描きました。 これを見た源内は「これではただの円か盆かわからない」と言って、直武の絵に濃淡をつけて立体的にし、西洋画法の遠近法や陰影法を伝授したと伝えられています。 その後、直武は産別他所取扱役として、江戸における3年間の長期出張を命ぜられました。 江戸に上った直武は、平賀源内のもとで本格的に洋画の技法を学びました。 そして源内は直武を杉田玄白、前野良沢に引き合わせ、「解体新書」の解剖付図という仕事を与えたのです。 「解体新書」の仕事を通して、直武は西洋画のさまざまな技法を収得し、「鷹図」「不忍池図」などの作品を完成させます。 そして、8代秋田藩主佐竹義敦(1748〜1785・号曙山)、角館城代佐竹義躬などが直武に技法を学ぶこととなったのです。 これらの秋田の画家たちの画を「秋田蘭画」と呼び、洋風の遠近法・陰影法を取り入れた、独自の日本画の世界を作り上げています。 安永6年(1777年)12月、直武は角館に戻りますが、翌年2月、佐竹義敦のいる久保田城(秋田)に呼び寄せられ、「奥御用」として義敦の洋風画の指導を勤めました。 安永7年10月には、義敦の江戸在勤のお供として江戸に上りました。 しかし、一年後に突然義敦から「遠慮謹慎」を命じられ、角館に帰国して、ひたすら謹慎が解かれるのを待ちました。 謹慎の理由ははっきりしませんが、平賀源内や源内の後援者であった田沼意次の失脚との関係が言われています。 平賀源内は安永8年誤って殺人を犯し、その年の12月21日獄中で病死しました。 直武自身も安永9年(1780年)5月、謹慎が解かれないまま、わずか32歳の生涯を閉じました。 また、佐竹義敦は次第に蘭画に対する情熱を失い、天明5年(1785年)に江戸で没しました。 その結果、秋田蘭画の繁栄期は10年足らずの短いものとなってしまいました。
青柳家には山車(やま)も展示されていました。 9月に行われる「角館のお祭り」は、各町内が繰り出した山車同士が町中心部の通りで激突する豪快な祭りだそうです。 「武家屋敷通り」に近い桧木内川(ひのきないがわ)は、川堤の桜並木が有名です。 現在上演中の『釣りバカ日誌15』の舞台は秋田だというので見に行って参りましたが、映画の最後は桧木内川で釣りをするハマちゃん一家のシーンになっていました。
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