2005年1月1日(土) 九州三都紀行・長崎(6) : 如己堂・永井隆記念館・浦上天主堂 |
◇ 如己堂(にょこどう)・永井隆記念館 昭和20年6月、長崎医大物理療法科助教授であった永井隆博士(37歳)は白血病と診断されました。 研究のため浴びた放射線が原因と考えられています。 同年8月9日の原爆により、部長室にいた博士は重い傷を負いましたが、救護班を編成して献身的に被災者の治療に当たりました。 11日の夜に家に帰ると家は焼け落ち、妻のみどりさんは骨となっていました。 博士は疎開していた2人の子供と二間の小さい家に住みました。 博士はこの家を「おのれのごとく人を愛せよ」というキリストの教えから「如己堂」と名付けました。
「長崎の鐘」などの著作で得たお金は寄付してしまい、博士はこの狭い家に住み続けました。 修学旅行の小学生が家の前に並び、ガイドが「ここが如己堂で、あそこに寝ているのが永井博士です」と説明するということもあったそうです。 多くの著作を残し多くの表彰を受けた博士ですが、白血病の症状は徐々に進み、昭和26年5月1日、長崎医大病院で死亡しました。享年43歳でした。
◇ 浦上天主堂 浦上地区にはキリスト教が禁止された江戸時代にも多くの隠れキリシタンがいました。 原爆により浦上天主堂は倒壊焼失しました。 しかし、焼け跡からは鐘楼にあったアンゼラスの鐘が発見されました。 現天主堂は昭和34年の再建で、塔からはアンゼラスの鐘が聞こえてくるそうです。 「長崎の鐘」といえば藤山一郎でしょうか。 こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ 昭和24年、サトウハチロー・作詞、古関裕而・作曲 |