2005年1月1日(土) 九州三都紀行・長崎(7) 長崎大学医学部 付属病院 |
◇ 長崎大学医学部 浦上天主堂から「医学部通り」を行くと、長崎大学医学部がありました。 かつてこの場所には長崎医科大学の基礎キャンパスがありました。 斎藤茂吉が大正6年(1917年)12月(35歳)から欧州留学に発つ大正10年(1921年)10月まで、精神病学科教授として在職した長崎医学専門学校もここにあったのでしょうか?
昭和20年8月9日の原爆投下の時、基礎キャンパスでは夏休み返上で授業が行われていました。 爆心地から5〜700メートルしか離れていない木造の校舎は凄まじい爆風により一瞬にして倒壊炎上しました。 教職員学生は一瞬のうちに、あるいは運良くその場を逃れたものも急性の放射線障害により、学部1・2年生、医専1・2年生の合計410名全員が死亡しました。 なんという恐るべきことでありましょう。 医学部の裏には旧長崎医大の門が残されています。 爆風によりゆがんでしまったその姿は、原爆の恐ろしさを後世に伝えています。
◇ 付属病院 谷一つ隔てた臨床キャンパスは爆心地から少し遠く、また鉄筋の建物であったため生存者もありましたが、角尾晋学長をはじめとする多くの犠牲者を出しました。 結局、長崎医大では学生教職員を合わせ893名の犠牲者を出しました。
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