2005年1月1日(金)
九州三都紀行・長崎(10) : グラバー邸・三浦環
 
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◇ グラバー園

 グラバー園へは路面電車「石橋」電停からグラバー・スカイロードを利用します。
 斜行&垂直エレベーターなんですが、これが無料なんですから、長崎市は太っ腹です。
 グラバー園にはグラバー邸をはじめとする8棟の洋館が集められています。

グラバースカイロード 旧三菱第2ドックハウスからの眺望


 スコットランド生まれの貿易商トーマス・グラバー(1838〜1911年)は安政6年(1859年・21歳)に長崎にやって来ました。
 彼は単なる貿易商には留まらず、武器の輸入などを通じ薩長の勤王志士を応援し、明治維新に大きな影響を与えました。
 来日4年目に彼はこの地に邸宅を構えました。
 現存する木造洋館では我が国最古のものです。

グラバー邸と稲佐山 グラバー邸内部


 長崎港を見下ろすグラバー邸はプッチーニのオペラ《蝶々夫人》ゆかりの地といわれています。
 ペンシルヴァニア州出身のサラ・コレルは宣教師の妻として明治24年(1891年)来日し、長崎に滞在しました。
 彼女はグラバー家とも交友がありました。
 彼女の日本での見聞をもとに、弟のジョン・ルーサー・ロングは1897年に小説『マダム・バタフライ』を発表しました。
 この小説はセンセーションを巻き起こし、1900年デビッド・ベラスコによって戯曲化されました。
 そして評判を聞いてロンドンの舞台を見に来たプッチーニによりオペラ化され、オペラ《蝶々夫人》は1904年2月17日にミラノ・スカラ座で初演されました。

 グラバー園には「三浦環の像」が建っています。
 三浦環(旧姓柴田)は1884(明治17)年に東京で生まれ、東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業しました。
 父親の強い希望で1904年(明治37年)軍医の藤井善一と20歳で結婚。
 しかし仙台に赴任する夫よりも東京での音楽活動を選び、1907年に離婚しました。
 離婚した環には求愛の手紙が殺到し、1910年(明治43年)、東大出身の医師であり研究者である三浦政太郎と再婚しました。
 政太郎はお茶にビタミンCが大量に含まれていることを発見したことで有名です。

 1914年5月10日に二人は横浜港からヨーロッパに向かいました。
 1915年(大正4年)5月31日、彼女はロンドンのオペラハウスで《蝶々夫人》を歌い、大好評を博しました。
 彼女はこれをきっかけにニューヨークを拠点にヨーロッパとアメリカを中心とした活動を続け、実に2000回も《蝶々夫人》を演じています。

 1920年にはローマの劇場で作曲者プッチーニ(1859〜1924)の前で蝶々さんを演じ、トレ・デル・ラーゴの別荘に招待されました。
 プッチーニは「貴女は世界にたった一人しかいない、最も理想的な蝶々さんです」と語りました。

 グラバー園にはプッチーニの胸像と「マリア・カラス来崎祈念」のオリーブの木もありました。

三浦環の像 プッチーニの像
二つの像の位置関係 マリア・カラス来崎祈念
 
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