島原の乱&阿蘇紀行 (1)長崎・斎藤茂吉寓居の跡 2008年5月3日(土) |
「天草四郎」−その名に、なぜ私たちは言い知れぬロマンを感じてしまうのでしょうか。 愛。信仰。迫害。蜂起。殉教。そんな言葉が並ぶだけで胸は昂ぶり、そしてその悲劇を背負う主人公が弱冠十六歳の少年であることに、いっそう心は揺さぶられてしまうのです。 わらび座ミュージカル《天草四郎》(08/02/09)のプログラムに書かれた長谷川康夫さんの言葉に惹かれ、「天草島原の乱」を訪れる旅をしてみました。 8:05 名古屋空港(小牧)発。 9:30 長崎空港着。 島原半島に向かう前に、今までの長崎旅行で見落としていた「斎藤茂吉寓居の跡」と「シーボルトお稲の墓」を巡りました。 長崎市内へ向かうバスの車窓から、「天正遣欧少年使節顕彰之像」(大村市)が見えました。
長崎駅の観光案内所で観光マップをもらい、まずはタクシーで「斎藤茂吉寓居の跡」へ。 ところが運転手さんが「斎藤茂吉寓居の跡」を知らない。 駅でもらった観光マップと首っ引きで探していただくことになりました。 なんとか探し出した「斎藤茂吉寓居の跡」の碑は普通の道に立っておりました。
茂吉が長崎医学専門学校の精神病学科教授として長崎へやって来たのは大正6年(1917年)12月(35歳)。 妻輝子と前年に誕生した長男茂太を東京に残しての単身赴任でした。 そして、大正10年(1921年)10月、欧州留学に出発したのでした。 近くの桜町公園の隅に茂吉の歌碑が立っていました。 「あさ明けて 船より鳴れる太笛の こだまは長し 並みよろふ山」
|