島原の乱&阿蘇紀行 (2)シーボルトお稲の墓 2008年5月3日(土) |
続きまして眼鏡橋の奥にある「へいふり坂」を登り、皓台寺にあるシーボルトの娘お稲の墓を目指します。 「へいふり坂」の左が皓台寺、右が大音寺となっています。 坂の登り口から「楠本イネの墓」の案内表示があるのは親切です。
皓台寺からお稲の墓までは坂道を登るのですが、この階段が長いのなんのって。 運転手さんの話では、長崎は山に囲まれているためお墓は高台にあるとのこと。 お彼岸なんかは大変なんだそうです。
シーボルトの娘であるお稲について書くと長くなりすぎますので割愛 (^_^ゞ。 彼女は1903年、東京の麻布で亡くなりました。享年77。 お稲が葬られているのは『楠本家之墓』で、側面にイネの名が刻まれています。 吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』には、楠本の姓は宇和島藩主伊達宗城より、楠木正成にちなみ与えられた、と書かれています。 シーボルトの現地妻にしてお稲の母親であるお瀧も同じ墓に葬られているようです。 同じ長崎にあるシーボルトの鳴滝塾跡地は2004年12月31日に訪れたことがあります。 二宮敬作はシーボルトの弟子にしてお稲の師。 故郷の宇和島で医師として活躍しましたが、詳しく書くと長くなりますのでこれも割愛 (^_^ゞ。 文久2年(1862年)、長崎で病没し、楠本家墓地に葬られています。
楠本家の墓はよく手入れがされており、どうも子孫がおられるようです。 吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』によれば、お稲は師である石井宗謙にレイプされて、娘「タカ」を生みました。 「タカ」は片桐重明にレイプされて、息子周三を生みました。 『ふぉん・しいほるとの娘』は周三が東京慈恵医院医学校に入学したところで終わっています。 その後の楠本家はどうなったのでしょう? ※週刊現代2010年8月21・28日合併号の「幕末の英雄・その子孫たちの『いま』」という特集(P184〜P190)に、シーボルトの子孫のことが書かれていました。 イネの子孫で、シーボルトから6代目に当たる楠本貞夫さん(59歳)は東京都昭島市で歯科医院を開業している。 「歯科医の私を含め、6代続けて全員が医者です。暗黙のうちに『医者にならなければいけない』というプレッシャーを、十字架を背負うように感じる環境です。‥‥診察室にはシーボルトの肖像画を貼っています」 旅に戻って、長崎でのもう一つの目的は本場のちゃんぽんと皿うどん。 以前来て美味しかった三八で両方を注文したところ、おかしな顔をされましたが、「観光客だから両方食べたい」と言うと納得してもらえました (^_^) 。 パリパリした皿うどんの方が気に入りました。 これで長崎の予定は全て終了。 これだけ見て1時の雲仙行きのバスに間に合ってしまうのですから、我ながら驚いてしまいます (^_^ゞ。
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