島原の乱&阿蘇紀行 (5)普賢岳・平成新山と火砕流 2008年5月4日(日) |
9:20 雲仙温泉より島原行きのバスで出発。 島原外港にて下車。 島原外港は熊本方面へのフェリー乗り場で、賑わっておりました。 島原外港の前にはノコギリ型の眉山(まゆやま)が聳え立っています。 寛政4年(1792年)の大地震によって眉山が崩壊し、島原城下の大半が埋没しました。 崩壊した眉山は海中に崩れ落ち、発生した津波は対岸の肥後・天草を襲いました。 津波の反復は3回に及んだとされ、1万5千人ともいわれる死者を出したこの大災害は「島原大変肥後迷惑」と呼ばれました。 平成3年(1991年)の普賢岳の噴火では、眉山によって島原市は守られることになりました。
観光案内所で普賢岳の撮影スポットを聞いたところ、「島原まゆやまロード」を薦められました。 さっそくタクシーでスタートです。 普賢岳の大噴火について運転手さんの説明を受けながら到着した撮影スポットは、火砕流・土石流の跡を横から眺める雄大な景色でした。 1991年(平成3年)6月3日午後4時8分の大火砕流により報道陣、消防団員、警官、タクシー運転手ら43名が命を落とした「定点」への道は閉鎖されていました。
続いて、火砕流の反対側にある旧大野木場小学校。 遠回りをするので、どうしてもタクシー代が高くなってしまいます (^_^; 。 ここでは、平成3年(1991年)年9月15日の大火砕流がもたらした熱風によって全焼した校舎が、そのまま残されています。 広島の原爆ドームのようなものでしょうか。 隣の「大野木場砂防みらい館」には噴火の映像や当時を記録したパネルの展示などがあり、当時TVニュースで見た普賢岳の噴火の凄まじさを現実のものとして感じることが出来ます。
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