島原の乱&阿蘇紀行 (6)原城趾 その1 ホネカミ地蔵 2008年5月4日(日) |
島原外港に戻り、島原鉄道バス「加津佐海水浴場行き」に乗りこみ、今回の旅行最大の目標である原城趾に向かいます。 島原半島の東海岸を下り、島原湾を眺めながらバスに乗ること1時間くらいで「原城前」のバス停に到着しました。 原城は広大な城であり、目の前に広がる全ての景色が原城趾です。 前に書いたように3月いっぱいで南島原鉄道が廃線となってしまったのでバスでやって来たのですが、鉄道駅の前にタクシーはいても、バス停にタクシーはいません。 タクシーの電話番号も見つからず、広大な原城趾を歩いて往復することになりました。
しばらく行くと「板倉重昌の碑」がありました。 板倉重昌は三河国深溝藩藩主で、幕府の上使(総大将)でした。 愛知県額田郡幸田町深溝にある本光寺はあじさいで有名で、写真を撮りに行ったことがあります。 本光寺については、後でまた触れることになります。 板倉重昌は幕府軍の総大将でしたが、いかにせん小藩の出であったため、幕府軍の諸将は彼の指揮に従わず、自ら先頭に立って突撃を敢行しましたが、銃弾を受け戦死してしまいました。 寛永15年(1638年)1月1日。享年50。
なおも本丸に向かって歩くと「ホネカミ地蔵」がありまして、その解説板を読んで僕は仰天してしまいました。 寛永15年(1638年)2月28日、島原の乱は終わりを告げた。 ホネカミ地蔵は,島原の乱が終わった後の明和3年(1766年)7月15日、有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で斃れた人々の骨を敵・味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔である。 八波則吉先生は,「骨かみ地蔵に花あげろ,3万人も死んだげな,小さな子どももいたろうに,骨かみ地蔵に花あげろ」とうたっています。 「ホネカミ」とは,「骨をかみしめる」の意味で,そのことから「自分自身のものにする」「人々を済度する(助ける・救う)」と理解すべきだと言われている。 可愛い「ホネカミ地蔵」の立つこの小さい丘に、いったい何千人の死者が埋められているのでしょう? 怖ろしくて、僕は足を踏み入れることが出来ませんでした。
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