島原の乱&阿蘇紀行 (7)原城趾 その2 本丸跡 2008年5月4日(日) |
「ホネカミ地蔵」からなおも本丸へ進みます。 広い本丸跡は、公園となっていました。
本丸からは雲仙岳が見えました。 かつて四郎を始めとする一揆軍もこの山を見ていたのですね。 本丸跡には郷土の彫刻家、北村西望制作の天草四郎像が立っていました。 その側には天草四郎の墓がありまして、表面に「○保○年 天草四郎時○○ ○二月廿八○母」と書かれているそうです。 「この墓碑は西有家にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものです」と解説されていました。 四郎の母は四郎の死後に処刑されていますので、四郎の墓を作ることは出来なかったでしょう。
原城は明応5年(1496年)、有馬氏第9代領主有馬貴純により、日野江城の支城として築城されました。 別名「日暮らし城」とも呼ばれた美しい城でした。 時代は下って、キリシタン大名として有名だった第14代領主有馬晴信は慶長17年(1612年)に海外貿易に関する岡本大八事件で死罪となり、その子直純は2年後に日向に転封となりました。 元和2年(1616年)に松倉重政が入封しますが、原城は日野江城とともに廃城となり、新しい島原城の築城のために石垣や構築物が利用されたということです。 原城が天草四郎を総大将とする「島原天草の乱」の舞台となったのは21年後の寛永14年(1637年)10月末。 3万数千人がこの原城に籠城したということです。 しかし、松平伊豆守を総大将とする12万5千もの兵に包囲され、籠城3ヶ月もすると食料、弾薬も乏しくなってきました。 そして、翌年の寛永15年(1638年)2月27,28日の総攻撃で、裏切り者とされる南蛮絵師の山田右衛門作を除き、一揆軍は全滅しました。 3万という人数がどれくらいのものかは想像できませんが、この本丸跡にも一揆軍の多くの人々が眠っているはずで、居心地が悪かったです。
長い道をバス停へ戻り、南島原鉄道の廃線を見て、島原行きのバスを待ちました。 このあたりには他に史跡も多いはずなのですが、タクシーが無くては何ともなりません。 バスを待つこと数十分。 突然目の前をタクシーが通りまして (@o@) 、手を挙げたら新しい道が開けました \ (^o^) /。
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