島原の乱&阿蘇紀行 (8)日野江城とセミナリヨ 2008年5月4日(日) |
幸運にもタクシーを捕まえることができ、日野江城に向かいました。 しかし、この運転手さんが日野江城を知らず、地元の人に道を尋ねながら、お城を探すことになりました。 日野江城への道は狭い山道で、たどり着いた天守閣も荒れ果てていました。 かつてこの場所にお城があり、キリシタン文化が栄えたとはとても考えらない状態でした。 日野江城は400年にわたり肥前有馬氏の居城でした。 築城は鎌倉時代とされますが、11代晴純の時代に21万石を領するまでになりました。 キリシタン大名として有名だった第13代領主有馬晴信は城下にセミナリヨを建設し、天正遣欧少年使節を派遣しました。 しかし、晴信は慶長17年(1612年)に海外貿易に関する岡本大八事件で死罪となり、その子直純は2年後に日向に転封となりました。 元和2年(1616年)に松倉重政が入封しますが、日野江城は原城とともに廃城となり、新しい島原城の築城のために石垣や構築物が利用されたということです。
僕はポルトガルの宣教師であり外科医でもあったルイス・デ・アルメイダの足跡を追っています。 大分(府内)には「西洋医術発祥記念像」が建っており、大分市医師会立アルメイダ病院があります。 1563年、アルメイダがこの地方に布教に訪れました。 1576年に領主有馬義直が洗礼を受けてから信徒の数は急速に増加し、その数は2万人にも達したと言われます。 アルメイダはまた病院を建て、領民の治療にあたっています。 1580年、日本巡教師ヴァリニャーノは有馬晴信の許可を得て、日本最初のセミナリヨを日野江城下に建てました。 セミナリヨでは15歳前後の少年たちが日本の文法古典やラテン語、キリシタン教理など学びました。 1582年には、セミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた4人による「天正遣欧少年使節」がローマに派遣されています。 伊東マンショ(正使):大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。 千々石ミゲル(正使):大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。 中浦ジュリアン(副使) 原マルティノ(副使)
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