島原の乱&阿蘇紀行 (9)島原市内観光・島原城
2008年5月4日(日)

前へ  島原紀行目次  気まぐれ日本紀行08  ホームページへ  次へ
 
 
 バスで島原に戻り、島原観光です。
 島原鉄道島原駅は島原城を模したものですが、人気が少ない駅でした。

島原鉄道島原駅 島原の子守歌
 
 
 島原駅から目の前に島原城が見えます。
 キリシタン大名として有名だった日野江城主有馬晴信は慶長17年(1612年)に海外貿易に関する岡本大八事件で死罪となり、その子直純は2年後に日向に転封となりました。

 元和2年(1616年)に松倉重政が大和国五条から入封しますが、重政は日野江城と原城を廃城し、新しく島原城を築城します。
 重政は築城の名手として知られ、新しい島原城は4万石には不釣り合いな大規模な城となりました。
 建築のため領民の限界を超える年貢を課し、これが島原の乱の原因の一つとなります。
 また幕府の命もあり、過酷を極めるキリシタンの弾圧を行いました。

 重政はキリシタンの根拠地であるルソンを攻略しようと出兵を準備しましたが、その矢先、寛永7年(1630年)に小浜温泉で急死しました。
 第2代勝家は厳しい年貢の取り立てとキリシタン弾圧を続け、寛永14年(1637年)10月25日に島原の乱が勃発しました。

 乱の鎮圧後、松倉勝家はその責任を問われ、寛永15年(0638年)4月4日、天草の領主であった唐津藩主寺沢堅高と共に改易。
 4月12日には美作国津山藩藩主森長継に預けられ、同年7月19日に江戸の森家下屋敷で大名としては大変不名誉な斬首に処せられました。
 松倉家は断絶し、高力忠房が遠江国浜松藩より移封され、島原藩を受け継ぎました。

駅から目の前に島原城 島原城


 入口までは堀をぐるりと廻ることになり、けっこう遠かった。
 昭和39年(1964年)に復元された現在の天守閣は、東に島原湾ごしに熊本を眺め、西に眉山の後ろに普賢岳を望む見晴らしの良い天守閣でした。

入り口まではけっこう遠い 天守閣
島原湾ごしに熊本が見える 眉山の後ろに普賢岳
 
前へ  島原紀行目次  気まぐれ日本紀行08  ホームページへ  次へ