島原の乱&阿蘇紀行 (11)口之津
2008年5月5日(月・祝)

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 島原鉄道バス「加津佐海水浴場行き」に乗り、昨日訪れた原城趾を通り過ぎ、口之津の島鉄フェリー乗り場に到着。
 フェリー乗り場の前には大きな南蛮人が立っていました。

島鉄フェリー乗り場 大きな南蛮人が立っている
 
 
 フェリーの待ち時間を利用して口之津観光です。
 まずは赤い「なんばん橋」を渡って「口之津海の資料館」。

 充実していたのは明治時代の三井三池炭坑の石炭積み出し港としての資料。
 大牟田は遠浅で大型船の入港が困難であったため、口之津港まで底の浅い団平船で石炭をはこび大型船に積み替えていたとのこと。

 口之津の若い男は船乗りになり、若い女は「からゆきさん」として運ばれていったそうです。
 その頃の賑わいは今の静まりかえった口之津から想像することもできません。

赤い「なんばん橋」を渡って 口之津海の資料館
石炭積み出し港としての資料 かつては南蛮船もやってきた


 続きまして開田公園にある「南蛮船来航の碑」。
 ところが運転手さんがこの碑を知らないんですね。
 他に観光史跡もないのに、もう少し地元のことは知っておいていただきたいものです。

 1562年(永禄5年)、有馬義貞は口之津港を開いて海外貿易に乗り出しました。
 また実弟の大村領主・大村純忠を通じて平戸のイエズス会にキリスト教宣教師の派遣を要請し、そしてやってきたのが、ルイス・デ・アルメイダ修道士です。
 アルメイダは精力的に布教に勤め、口之津はキリスト教布教の中心地となりました。

開田公園の一角に 南蛮船来航の碑


 口之津ではもう一つ、「山田右衛門作の住居跡」。
 山田右衛門作(やまだえもさく)は日本初の南蛮絵師と言われ、天草一揆勢の陣中旗は彼の手になるものとも言われています。

 彼は一揆勢のリーダーの一人でしたが、矢文で内通したとして牢に入れられてしまい、その結果として一揆勢唯一の生き残りとなりました。
 わらび座ミュージカル《天草四郎》で右衛門作は、歴史の生き証人として生き延びることを、四郎に依頼されたのでした。
 
山田右衛門作の住居跡  
 
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