島原の乱&阿蘇紀行 (12)鬼池〜本渡・アルメイダの碑 2008年5月5日(月・祝) |
予定どおりに口之津観光を終わり、島鉄フェリーで天草へ向かいます。 天草・鬼池港までの所要時間はおよそ30分です。
到着した鬼池は、何とも寂しい港でした。 天草の乱の激戦地、富岡城に行ってみたかったのですが、この時間にはバスがありません。 客待ちのタクシーに聞いたところ「往復1万円」とのことで、富岡城は諦めました (^_^; 。 しかしフェリー待ちの車は多く、昨日は営業時間を延長して、全ての車を渡し終えたのは11時過ぎだったそうです (@o@)。 30分待ちで本渡行きのバスがやってきました。 その後は数時間はバスが無く、タクシーだったら1万円はかかりそうです。
本渡市は鬼池とは違って大きい町で、天草の中心です。 さっそくタクシーで本渡市街駆け足観光です。 この運転手さんは優秀な観光ガイドでした。 本渡は天草の乱の激戦地のひとつで、寛永14年(1637年)11月14日の本渡合戦で当時天草を治めていた唐津藩城代(富岡城の領主)三宅籐兵衛(明智光秀の孫)は戦死したのでした。 本渡合戦の無数の遺骸を、敵味方なく葬っているのが殉教公園の千人塚です。 殉教公園一帯は天草氏の本拠であった本渡城で、高台から本渡市街を眺めることができました。
殉教公園の一角に「アルメイダ記念碑」が建っていて、次のように解説されていました。 アルメイダは1525年ポルトガルのリスボンに生まれ21歳で医師の資格を得、東洋貿易商人として活躍した。 1555年平戸に渡りイエズス会に入会、私財を投じて豊後府内(大分)に孤児院を建てると共に、総合病院を開設、臨床的に外科医を養成するなど、わが国に最初の西洋医学を伝えた。 1561年以降は布教活動に専心し1566年(永禄9年)志岐氏の招きで来島、島内各地で布教に従事し、1583年天草においてその生涯を終えた。 この記念碑はアルメイダの人間愛の生涯を記念し、その終えんの地に建てられたものである。 アルメイダが病死したのは天草河内浦(現在の河浦町)で、1583年10月から11月にかけて。 59歳でしたが、80歳以上の老人に見えたそうです。
殉教公園を下りたところに、立派な明徳寺が建っていました。 天草の乱後、天領になった天草の初代代官であった鈴木重成は、兄の禅僧鈴木正三和尚の助力を仰ぎ数多くの社寺を建立しました。 彼は名代官だったそうで、天草の人は今でも「鈴木さまと呼んでいる」という運転手さんの話でした。
駆け足観光、最後は本渡歴史民俗資料館です。 ここには今工事中の天草切支丹館の展示物が間借りしています。 資料館前に立つ天草四郎像も天草切支丹館から引っ越しているようです。 天草切支丹館で有名なのが山田右衛門作によって描かれたとされる「天草四郎陣中旗」で、十字軍旗、ジャンヌ・ダルクの旗とともに世界三大聖旗と言われているそうです。 普段はレプリカが展示され、年5回実物を公開するそうです。
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