高知の旅 3)山内神社と山内家墓所 2009年5月4日(月・祝) |
1806年、10代藩主豊策(とよかず)公の時代に、藩祖一豊公と同夫人・見性院(千代)、そして、2代藩主忠義公を祀るため、旧野中兼山邸跡に藤並神社が建てられました。 この野中兼山は有名な人らしいが、詳細は省く。 かつての藤並神社は、現在では高知県立文学館となっています。 太平洋戦争後に、藤並神社の御旅所であった現在地に山内神社が建てられ、代々の藩主が祭神となっています。 山内神社にある土佐山内家宝物資料館の内容は充実したもので、ここでしか手に入れることが出来ない資料も多くありました。
神社の裏手に鏡川(かつて龍馬も泳いだとか)があり、その向こうに筆山が見えます。 この筆山に山内家墓所がありました。 墓所の門は閉まっていましたが、「ふだん町の人が散歩しているから、入っても大丈夫だよ」というタクシー運転手さんの声に背中を押されて、見学してきました。 遠州掛川5万石の城主であった山内一豊(やまうちかつとよ)は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの恩賞として、土佐20万石を与えられました。 しかし彼は長宗我部氏の旧家臣らによる抵抗に苦しみ、征服者として統治に臨むことになりました。 1601年(慶長6年)3月に桂浜で開かれた相撲興行において、長宗我部氏の旧家臣73人をだまし討ちにするなど、卑劣な手段も用いました。 墓所の一番上に山内一豊公のお墓がありましたが、「山内一豊の妻」である見性院のお墓はありませんでした。 見性院は晩年を京都で過ごし、お墓は京都妙心寺にあるそうです。 あまり高知には帰りたくなかったのだろうな、夫婦仲は良くなかったのだろうな、と勝手に推察しております (^_^ゞ。
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