愛媛の旅 5)宇和島/えひめ丸・伊達宗城  09年5月6日(水・休)

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 今日は最初に宇和島まで行って、卯之町→大洲とだんだん松山に戻ってくる作戦です。

 JR宇和島駅前には「宇和島闘牛の像」、「鉄道唱歌誕生100周年記念事業」など、面白そうな記念碑が建っています。
 「汽笛一声 新橋を はやわが汽車は 離れたり」で始まる鉄道唱歌を作詞した大和田健樹は、宇和島藩士の子供だったそうです。
 
JR宇和島駅 「宇和島闘牛」
コッペル社製機関車(復元) 鉄道唱歌・大和田健樹作詞


  平成13年2月10日、ハワイ州オアフ島沖で宇和島水産高等学校のマグロ延縄実習船「えひめ丸」が、緊急浮上した米原子力潜水艦「クリーンビル」に衝突されて沈没し、乗員35名中9名(高校生4名)が行方不明となりました。

 事件発生時にゴルフをしていた森喜朗首相(当時)は連絡を受けながらもゴルフを続け、このことが2ヶ月後の退陣につながりました。

宇和島水産高校 えひめ丸慰霊之碑


 徳川時代の宇和島藩には慶長13年(1608年)富田信高が伊勢国安濃津藩より10万石で入封しましたが、5年後の慶長18年(1613年)坂崎出羽守と争い改易となりました。
 
 その後、慶長19年(1614年)に仙台藩伊達政宗の庶長子、秀宗が10万石で入封し、それ以降は伊達氏が明治維新の廃藩置県まで宇和島藩を治めました。

 幕末の第8代藩主・宗城(むねなり)『文政元年(1818年)~明治25年(1892年)』は第7代藩主宗紀の養子でしたが、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬と並び幕末の四賢侯と称されました。

 宇和島市立伊達博物館には伊達家の家宝が多数展示されていますが、なかでは『豊臣秀吉画像』に興味を引かれました。
 秀吉画像は、秀吉の側近だった伊勢安濃津5万石の城主、富田知信が、秀吉の死後、秀吉をしのんで狩野派の絵師に描かせたもの。

 知信の子信高は、関ケ原の戦功により宇和郡10万石を拝領した際、父の菩提寺として金剛山正眼院を建立し、寺に画像を寄進しました。
 寺は幕末に、この絵を宇和島8代藩主伊達宗城に献上した、とのことです。

宇和島市立伊達博物館 伊達宗城像


 伊達家の菩提寺である等覚寺には、伊達家代々の藩主の墓が並んでいます。
 ここでは伊達宗城夫妻の墓を載せておきましょう。

伊達家菩提寺/等覚寺 伊達宗城夫妻の墓
 
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