坂本龍馬室・千葉さな子の墓 09年7月19日(日)

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 太宰の新居の裏とおぼしきところに日蓮宗妙清山清運寺があり、坂本龍馬の許嫁・千葉さな子の墓がありました。

 千葉さな子(千葉佐那子)(1838年・天保9年 ~ 1896年・明治29年10月15日)は、北辰一刀流剣術開祖千葉周作の弟・千葉定吉の長女で、「千葉の鬼小町」と呼ばれました。
 武芸に秀で、美人の誉れが高かったことは、佐那が剣術指南を務めていた宇和島藩の記録にも残されているそうです。

 16歳のころ、北辰一刀流千葉道場に修行に来ていた坂本龍馬と知り合い、婚約を交わしたということです。
 龍馬の死後も彼の妻として一生を独身で過ごしました。

 維新後は学習院女子部の舎監を勤め、その後、千住にて家伝の針灸を生業として、千葉灸治院を開きました。
 明治29年10月15日、さな子は千住で59歳の生涯を閉じました。

日蓮宗妙清山清運寺 墓地への入口に説明がある


 自由民権運動の指導者である小田切謙明は、中風治療のため千葉灸治院に通院し、さな子との親交が深まりました。
 謙明はさな子より早く死亡しましたが、妻豊次は谷中の墓地に埋葬されたさな子が無縁仏になることを哀れみ、小田切家の墓地のある清運寺に分骨し、墓を建てました。

 墓石の裏には「坂本龍馬室」と書かれているそうです。
 よく見えませんでしたが‥‥ (^_^; 。

千葉さな子の墓 墓石の裏には「坂本龍馬室」


◇平成22年(2010年)7月3日の中日新聞夕刊に「坂本竜馬の婚約者、千葉さなが結婚?」という記事が載っていました。

 毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)が明治36年(1903年)8~11月に連載した「千葉の名灸」は、千葉さな(天保9年/1838年~明治29年/1896年)が晩年、千住(東京都足立区)で営んだきゅう治院の来歴などを描く内容で、さなの親族に取材して書かれたそうです。

 10月4日~5日の記事によると、明治6年(1873年)に横浜に移り住んださなは、兄の定吉が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士山口菊次郎と結婚したが、菊次郎の身持ちの悪さ(おふくという女性が絡んでいるらしい)などから10年たたず離縁、千住に移り住み亡くなるまで再婚しなかった、とのことです。

◇次に、2010年8月22日の新聞には「千葉さなの直筆文書を発見」という記事が載っておりました。

 文書は1887(明治20)年の南足立郡役所(今の東京都足立区役所に相当)建設に際し、住居の立ち退きを求められたさなが、建物などの移転料を求め当時の東京府知事に出した「御受届」。

 御受届は「千住1丁目1番地 建物22坪うち2階造4坪 庭植木とも この移転料1坪につき金6円59銭」などと書かれ、これらを条件に立ち退きを受けるという内容。明治20年1月20日付で、「千葉さな(奈)」と署名され、「佐奈」と読める印も押されていた。

 女性の筆としては力強く勢いもあり、勝ち気だったとされるさなの性格もうかがえるという。
 
 
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