続・太宰治の『津軽』を巡る (13)深浦 ふかうら文学館 2009年9月21日(月) |
![]() 『津軽』で太宰は、深浦について次のように書いています。 深浦町は、現在人口五千くらゐ、旧津軽領西海岸の南端の港である。 江戸時代、青森、鯵ヶ沢、十三などと共に四浦の町奉行の置かれたところで、津軽藩の最も重要な港の一つであつた。 丘間に一小湾をなし、水深く波穏やか、吾妻浜の奇巖、弁天嶋、行合岬など一とほり海岸の名勝がそろつてゐる。 しづかな町だ。漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさに吊されて干されてゐる。何かあきらめた、底落ちつきに落ちついてゐる感じがする。 深浦町は海岸線に沿って五能線の駅が11もある、細長い町です。 JR深浦駅は人気のない駅でした。
深浦では『津軽』に従って、円覚寺に行ってみました。 駅からまつすぐに一本路をとほつて、町のはづれに、円覚寺の仁王門がある。 この寺の薬師堂は、国宝に指定せられてゐるといふ。 私は、それにおまゐりして、もうこれで、この深浦から引上げようかと思つた。 完成されてゐる町は、また旅人に、わびしい感じを与へるものだ。 円覚寺の寺宝館に「まげ額」がありました。 「まげ額」は、荒天のため難破の危機に直面した船乗りたちが、ちょんまげを切り落とし、一心不乱に無事な生還を祈り、願いが叶って生還後、切り落としたまげを円覚寺に奉納したものです。 江戸時代の生々しい髪は、ちょっと不気味でした。
太宰はこのまま深浦からは引き上げず、行きあたりばったりの宿屋へ這入り、汚い部屋に案内されたのでした。 太宰が泊まった秋田屋旅館は改装され、2004年に「ふかうら文学館」として公開されています。 2階に太宰の部屋が再現され、彼が食べた料理の見本もありましたが、撮影禁止とは心ないことです。
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