太宰治『津軽』落ち穂拾いの旅  Ⅱ
8)五所川原・中畑けいさんと面会 2015年8月16日(日)

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 今回の旅では、幸運なことに中畑けいさんにお会いして、お話を伺うことが出来ました。
 『津軽』で太宰は「たけ」との再会を最後のクライマックスとしたのですが、僕の旅も中畑けいさんとの面会が最後のクライマックスとなりました。
 文学史上の人物、太宰と親しく話をした方との面会に、前夜から心臓がドキドキしていました (^_^ゞ。

 『津軽』
 鰺ヶ沢の町を引上げて、また五能線に乗つて五所川原町に帰り着いたのは、その日の午後二時。私は駅から、まつすぐに、中畑さんのお宅へ伺つた。中畑さんの事は、私も最近、「帰去来」「故郷」など一聯の作品によく書いて置いた筈であるから、ここにはくどく繰り返さないが、私の二十代に於けるかずかずの不仕鱈の後仕末を、少しもいやな顔をせず引受けてくれた恩人である。
 
駅前の大通り。向かいに「蔵」が見える 左に「蔵」、右に「立佞武多の館」
ロータリーから戻り、すぐの交差点を入ると この辺りに中畑さんのお店がありました


 中畑けい(なかばたと発音するのが正しい)さんは大正11年(1922年)8月23日生まれ。
 太宰が中畑家を訪ねたのは昭和19年(1944年)5月26日。
 けいさんは22歳だったでしょうか。
 僕がお目にかかったときは92歳でしたが、もうすぐ93歳になられるそうです。
 お話はしっかりしておられましたが、問題は僕の津軽弁ヒアリング能力だったですね (^_^ゞ。
 
中畑慶吉さん御一家 中畑けいさん


 『津軽』
 「これから、ハイカラ町ちやうへ行きたいと思つてるんだけど。」
 「あ、それはいい。行つていらつしやい。それ、けい子、御案内。」と中畑さんは、めつきり痩せても、気早やな性格は、やはり往年のままである。五所川原の私の叔母の家族が、そのハイカラ町に住んでゐるのである。(中略)
 中畑さんのひとり娘のけいちやんと一緒に中畑さんの家を出て、
「僕は岩木川を、ちよつと見たいんだけどな。ここから遠いか。」
 すぐそこだといふ。
「それぢや、連れて行つて。」

 以前から僕はこの文章はおかしいと思っていました。
 だって中畑さんの家から叔母の家(津島歯科・思い出の蔵)までは、上の写真に見るようにすぐ近くなんです。
 「御案内」は必要が無いんですよ。

 そのことを伺ったところ、太宰が行きたかったのは、果たして、岩木川だったそうです (^_^) 。
 僕は今まで乾橋の写真を五所川原側から、岩木山をバックに撮っていたのですが、太宰とけいさんが話をしたのは乾橋を渡った反対側だったそうです。

 乾橋は五所川原市と西海岸地方を結ぶ橋です。
 長さ76間(約137m)、幅3間(約5.4m)の木製の橋が完成したのは明治17年11月。
 その後、乾橋は昭和4年(1929年)に岩木川改修工事のため、総工費15万2千円をかけ、長さ324メートル、幅5.4メートルの鉄筋コンクリート橋として掛け替えられました。
 太宰とけいさんとのエピソードは、この時期の橋のことですね。
 当時の橋は、現在の橋より少し上流にあったそうです。

 現在の乾橋は、交通量の増大に対応するため、昭和37年に架替えられたものです。
 総工費約2億円をかけ、長さ346メートル、幅6.5メートルの橋が完成しました。
 
乾橋&岩木山 09年9月21日 太宰とけいさんが見た岩木川


『津軽』
「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちやんは、川の上流のはうを指差して教へて、「父の自慢の招魂堂。」と笑ひながら小声で言ひ添へた。
 なかなか立派な建築物のやうに見えた。中畑さんは在郷軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れいの侠気を発揮して大いに奔走したに違ひない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋の袂に立つて、しばらく話をした。

 その後の治水工事のために堤防がかさ上げされ、今では乾橋から招魂堂は見えなくなっているようです。

招魂堂 招魂堂


『津軽』
「けいちやんからも、ずいぶん林檎を送つていただいたね。こんど、おむこさんをもらふんだつて?」
「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。
「いつ? もう近いの?」
「あさつてよ。」
「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちやんは、まるでひと事のやうに、けろりとしてゐる。「帰らう。いそがしいんだらう?」
「いいえ、ちつとも。」ひどく落ちついてゐる。ひとり娘で、さうして養子を迎へ、家系を嗣がうとしてゐるひとは、十九や二十の若さでも、やつぱりどこか違つてゐる、と私はひそかに感心した。

 けいさんのお話では、「あさって」は正しいそうです。
 太宰の小説には嘘が多いので、これはちょっと意外でした。
 しかし、けいさんがお婿さんに会ったのは結婚式の日が初めてだったそうです。

 中畑家は後継者もおられるそうで、太宰の貴重な資料をいつまでも守っていただきたいものです。
 
 
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