マイヤーニッヒ(マイヤーニック)マーラー紀行(1991年8月7日の1)
※マーラー・交響曲第5番・作曲小屋

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 マーラーは1901年から1907年までの夏を、ケルンテン州・ヴェルター湖畔のマイヤーニッヒで過ごし、交響曲第5番(01〜02年)、6番(03〜04年)、7番(04〜05年)、8番(08年)、「リュッケルトの詩による歌」(05年)を作曲した。
 
 ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督であったマーラー(42歳)が、アルマ・シントラー(23歳)と結婚したのは1902年3月。
 その年の夏にマイアーニヒの山荘で『交響曲第5番嬰ハ短調』を完成。
 11月には長女マリア・アンナが誕生した。
 1904年6月には次女マリア・ユスティーネ誕生。
 そして、1907年7月に長女マリア・アンナがジフテリアで死亡し、マーラーは同年12月にウィーン宮廷歌劇場の音楽監督を解雇された。
 マーラーは1908年に活動の場をニューヨークに移し、夏の避暑地もトブラッハに変更された。

 僕がマイヤーニッヒの作曲小屋を訪れたのは1991年8月7日。
 前日はクラーゲンフルトに泊まり、朝一番でマイヤーニッヒに向かった。
 マイヤーニッヒはクラーゲンフルトの隣の村であった
 ちなみに、「Maiernigg」は、現地では「マイヤーニック」と発音されていた。

 考えてみれば「Maiernigg」は「マイヤーニック」で「マイヤーニッヒとは」読まないのだろう。
 「Maiernig」ならば「マイヤーニッヒ」なんですけれどもね。
 「g」が一つと二つでは発音が違うわけです。
 日本で発売されているマーラー関係の書籍は(全部読んだわけではありませんが)間違っているわけで、これは恥ずかしいことです。
 マーラー関係者に早急な訂正をお願いしたいものです。

 さて、クラーゲンフルトからのタクシーはマイヤーニッヒの入口で停まった。
 マーラーの作曲小屋へは、ここから山道を歩くのだという。
 しっかりした案内板があるので道に迷いはしなかったが、作曲小屋までの道は上り下りが多く、遠かった。
 山賊にでも襲われそうな、寂しい山道で、蚊が多いのには参った。

 新潮文庫『マーラー』(舟山隆)には、「作曲小屋はマーラーヴィラから60メートルほど入ったところ」と書かれているから、場所がおかしいような気がする。
 移設したのかな?

 20分も歩いただろうか、木々の間から作曲小屋が見えてきた。
 小屋は閉まっていて、掲示板には「開館時間は10時」と書かれていたが、こんな山の中で何時間も待っているわけにはいかない。
 次の予定(ブラ2のペルチャッハ)もあるので、残念ではあったが作曲小屋はこれでおしまいにして、マイヤーニッヒの村に戻ることにした。

 交響曲第3番などが作曲された、アッター湖畔シュタインバッハの作曲小屋は、1993年8月13日に訪れることになる。
 
木々の間から作曲小屋が見えてくる 作曲小屋の掲示板


 さて、マイヤーニッヒの村で探すのは、もちろんマーラーが住んだ家(マーラーヴィラ)。
 近くで洗車をしているおじさんに聞いたら、親切なことにトヨタの車に乗せて、家まで案内してくれた (^_^) 。
 マーラーが住んだ家は、マイヤーニッヒの一番はずれ、隣村との境の家だった。
 「今は人が住んでいて、中は見られませんよ」とのことだったが、外から見るだけで満足満足。

マーラーが住んだ家 静かなヴェルター湖
 

 ヴェルター湖に面したカフェテラスで休憩しながら、タクシーを呼んでもらう。
 自分で電話する実力がないから (^_^ゞ。
 マイヤーニッヒのあるヴェルター湖南岸は、交通の便が悪いためもあって、静かな自然に溢れた雰囲気が好ましい。
 これから行くペルチャッハのある北岸は、鉄道が通り、騒々しい観光地になっていた。

 やって来たタクシーでクラーゲンフルト港に戻り、次に目指すはブラームスが交響曲第2番を作曲したペルチャッハだ。