ドイツ音楽紀行(10)1997年4月14日(月)
デュッセルドルフ(1)シューマンハウス

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 デュッセルドルフの市内観光は『地球の歩き方』に従い、中央駅からノイマーマン通りをまっすぐ、オペラハウスを目指したが、ところがこれが遠かった (^_^;。
 これに懲りて、以後は交通機関を利用するようになる。

 途中の三越に本屋さんがあったので、日本の新聞を買おうと思ったんだが、残念なことに、この日は休刊日であった (^_^;。
 日本人らしい通行人が多かったが、何となく圧倒され、気後れがしてしまう。
 お上りさんの心境だな (^_^;。

 さて、デュッセルドルフのオペラハウスはベージュ色の近代的な建物で、裏に公園がある。
 歩き疲れたので、公園のベンチに座り池の白鳥を眺める。

 このオペラハウスはデュイスブルグの市立劇場といっしょに、ライン・ドイツ・オペラを構成しており、1994年に来日したことがある。
 名古屋ではルネ・コロをタイトルロールとする《ローエングリン》を上演し、全国のワーグナーファンが名古屋に集まったものだ。
 本日は公演が無いようだが、《トスカ》《ナクソス島のアリアドネ》などの予定プログラムが貼ってあった。

 そこからケーニッヒスアレーを歩いてみた。
 真ん中にお堀のある並木道で、デュッセルドルフのメインストリートだそうだが、お堀の水が澱んでいるのが残念だった。
 
オペラハウス ケーニッヒスアレー
 
 
 さて、僕がデュッセルドルフへ来た最大の目的は、ビルカー通りのシューマンの家。
 この家は再建なんだそうだが、白い壁の3階建てで、玄関の壁にはシューマンとクララのレリーフがはめられ、3階の壁には「1852年9月1日から1854年3月4日まで、ロベルト・シューマンとクララ・シューマンがこの家に住んでいた」と書かれたプレートが掲げられていた。

 1850年9月、デュッセルドルフの音楽監督としてドレスデンからこの街にやってきたシューマンは、オーケストラや合唱団を指揮し、『チェロ協奏曲』『ライン交響曲』などを作曲した。

 1853年10月1日、20才のブラームスは友人の名バイオリニスト・ヨアヒムの紹介で、この家にシューマン夫妻を訪れた。
 ブラームスの作品を聴いたシューマンは深く感動し、『新音楽時報』に『新しき道』と題するエッセイを書いた。
 『その彼がやって来たのだ。女神と英雄がその揺藍を見守っていたのである。彼はハンブルグからやってきたヨハネス=ブラームスと名乗り‥‥』とするこのエッセイによりブラームスの名前は音楽ファンの間で一躍有名となった。

中央の白い家 壁のレリーフ
 

 シューマンの家のすぐそばにはカール広場があって、野菜を売る屋台が並び、旬のアスパラガスが積まれている。
 クララも当然この広場でアスパラガスを買って、夫・ロベルトのために料理したのであろう。
 

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