ドイツ音楽紀行(11)1997年4月14日(月)
デュッセルドルフ(2)シューマンの身投げ
 
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 1854年2月27日午後2時、精神障害から錯乱状態となったシューマンは、雨の中、スリッパのままビルカー通りの家を飛び出し、ライン川に投身自殺を図った。

 シューマンの家からカール広場を通ってライン川まで500メートルくらい。
 僕が見たライン川には2つの大きな橋が架かっていたが、彼が飛び降りたシフスブリュッケは、1895年に取り外されたとのこと。
 河畔から見るライン川は濁った泥水だ。

 通りかかった船に助けられたシューマンは、医師と二人の見張りが付いて自宅療養した。
 クララは当然のことながら夫の自殺未遂に強い衝撃を受けたが、夫に会うことを許されなかった。

 3月3日にブラームスが駆け付け、精神的にも肉体的にも疲労の極にあったクララを、物心両面で助けた。
 3月4日にシューマンは今朝訪れたボン郊外エンデニヒの精神病院に移送された。

 ブラームスはデュッセルドルフでクララと過ごす内に、この美しい、14才年上の、6人の子供を持つ(当時もう一人を妊娠中)女性を愛するようになった。
 20才のブラームスだって、その頃はハンサムな青年だった。
 彼らの手紙のやりとりも親しさを増し、『愛するクララ』と呼びかけ、『あなたは私に何をしたのです。この魔法を取り除いて下さらないのですか』と恋の苦しみを打ち明けるようになる。

 この時期の彼らの関係についてはいろいろ(肉体関係があったとか無かったとか)推測されているが、彼らは晩年に往復書簡を処分してしまったため、本当の所は良く分からない。
 往復書簡を処分するところが怪しいんじゃないか、と僕は思うんだが (^_^;。

 2009年8月に上映された映画『クララ・シューマン 愛の協奏曲』では、クララとブラームスのベッドシーンがあり、二人は「上半身だけの関係」だとされていた。
 この映画はあまり出来の良い作品だとは思えなかった。

 1856年7月29日のシューマンの死後、8月から9月にかけてブラームスはクララや子供達とスイス旅行をした。
 どうもこの旅行中に決定的な何かがあったようで、この頃から彼らの恋愛関係は醒めた、落ちついたものになっていく。
 ブラームスも自分の気持ちに整理をつけ、その後はよき友人としての付き合いが(時々諍いもあったけれど)クララの死まで続くことになる。 

 デュッセルドルフのもう一人の有名人は、詩人ハインリッヒ・ハイネ。
 ハイネの生家のあるボルカー通りは繁華街で、歩行者専用道路となっていた。
 この家はビア・レストランになっているようだが、2階の壁には、ハイネの横顔のレリーフがはめられていた。
 そういえば、ハイネの展覧会のようなものがあるようで、『なじかは知らねど心わびて』という日本語のポスターが、町中に貼ってあった。


         街のポスター ↑

  ← ハイネの生家


 これでデュッセルドルフはおしまい。
 ハインリッヒ・ハイネ・アレー駅からUバーンに乗って中央駅に戻り、ケルンに向かった。
 

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