ドイツ音楽紀行99(7) 1999年4月30日(金)
リューベック (バッハとブクステフーデ)

前のページへ  旅行記の最初へ  ホームページへ  次のページへ
 


 9:29オイティン発の列車はリューベックに到着した。
 リューベックは大きい街だ。
 オイティンで走って足が疲れているので、タクシーに乗りブッデンブロークハウスに向かった。
 ここから駅まで逆に歩こうという訳だ。

 ブッデンブロークハウスはハインリッヒ・マンとトーマス・マンのマン兄弟の祖父の家で、第二次世界大戦の空襲で、表の壁だけが残された。
 ここではマン兄弟の子供の頃からの資料が展示がされているが、これは充実したものだった(日本語パンフレットをもらった)。
 マン兄弟の小説が好きな人には、是非お勧めしたい。
 僕は『トニオ・クレーゲル』で挫折してしまったけれど (^_^;。

 僕がリューベックで行きたかったのは、もちろん隣にあるマリア教会。
 1705年、20歳のヨハン・セバスチャン・バッハは、この教会のオルガニスト、デイートリッヒ・ブクステフーデが演奏するオルガンを聴くために、チューリンゲンのアルンシュタットからやってきた。
 バッハはブクステフーデのオルガンに魅せられ、許可された4週間の休暇は16週間にもなってしまったという、有名な逸話の残る教会だ。
 ブクステフーデの影響を受けて作曲されたのが、あの『トッカータとフーガ ニ短調』だ。

 マリア教会(写真 → )は重厚な煉瓦作りで、南北2本の塔が並び、見るものを圧倒する。
 教会の入り口は横にあって、入ると正面にステンドグラスがある。
 そのステンドグラスの右隣の壁に小さいオルガンがあり、そのオルガンの前にはブクステフーデを記念した石板が置かれていた。

 教会の一番奥にメインオルガンが見える。
 このオルガンは壁に取り付けてあるので、その下を歩くことができる。
 見た目には新しいオルガンだが、バッハ時代のオルガンは1941年の空襲で破壊されたのであろう。
 このオルガンのそばには、空襲の時に地面に落ち割れて熔けた鐘が、そのまま残されている。
 オルガンの下の壁には、オルガンを弾く老人とうしろに青年が立っている姿を掘った石板があり、次のように刻まれている( ← 写真 )。
     1705  KAM
     JOH・SEB・BACH
     NACH LUEBECK UM DEN
     BERUEHMTEN DIETRICH
      BUXTEHUDE
      ZU BEHORCHEN

 「1705年、ヨハン・セバスチャン・バッハがあの有名なデイートリッヒ・ブクステフーデを聴くためにリューベックに来た」。
 この石板はモダンなもので、戦後に作られたものであろう。

 市庁舎のそばにあるニーダーエッガーでマジパンをおみやげとして日本に送る。
 これは家族にいたく不評であった (^_^;。
 この店にはチョコレートで作られたかぶと虫の中にチョコボールを入れたお菓子がたくさん並べられていて、どうも季節商品らしい。

 ペトリ教会の展望台(リフトがある)の上からリューベックの街を眺め、ホルステン門を見学してから、ティル・オイレンシュピーゲルの街メルンに向かった。

前のページへ  旅行記の最初へ  ホームページへ  次のページへ