8:51 ライプツィッヒ発、10:00 ワイマール到着。
バッハはワイマールに1708年(23歳)から1717年(32歳)の間、宮廷オルガニストとして住んだ。
今回の『バッハ街道の旅』は、ライプツィッヒ → ケーテン → ワイマール と、彼の人生を逆に訪ねているわけだ。
さて、この街で僕に与えられた時間は2時間。
さっそくタクシーに乗って大公家の墓所へ。
まず一番遠いところに行って、そこから駅まで戻って来ようということだ。
タクシーから見るワイマールの街は、緑の多い落ち着いた佇まいが好ましい。
大公家墓所の入り口でタクシーを待たせて、緑に囲まれた並木道を走る。
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この道を走ると |
大公家の墓所 |

墓所のカッサでチケットを買い、目指すゲーテとシラーのお墓は地下にあった。
階段を下りるとゲーテの墓にぶつかる。
その隣がシラー。
写真( → )の左がゲーテ、右がシラー。
他に20位の棺が並んでいた。
ゲーテとシラーの棺の前には20人くらいの団体がいたので、棺の名前の確認だけしてすぐ地上に戻る。
カッサのおばさんが『本当に下に行ったのか?』と驚いていたね (^_^;。
2002年に『中欧・墓標をめぐる旅』平田達治(集英社新書)という本を買ったところ、そこには驚くべきエピソードが書かれていた。
1805年シラーは40代半ばで死亡した。
そして、ヤーコプ墓地の共同墓地に埋葬された。
1826年に墓地の状態を調査したところ、それまで埋葬された多くの棺は既に壊れて、もう誰のものか判別できなくなっていた。
26個の頭蓋骨が掘り出され、デスマスクと照合し、そのうちの一つがシラーの頭蓋骨と判定された。
そして遺体の部分も掘り出された。
翌年、この遺体は完成したばかりの大公家霊廟に納められた。
この遺体の真偽については論争があったが、1854年の再調査で、墓地から新たに70個の頭蓋骨が掘り出され、そのうちの一つがシラーのものだとする説が発表された。
で、今は大公家霊廟に2つのシラーの棺があるんだそうだ (@o@) 。
隣のゲーテの棺は、1832年の死後すぐに大公家霊廟に納められたが、彼の遺体も驚くべき扱いを受けることになる。
‥‥これ以降は本を買ってね (^_^) 。
次はリストの家( ← 写真左)。
大ピアニストにして作曲家であったリストが1869年から86年まで住んだ、最後の家だ。
彼は宮廷楽団の指揮者として活躍し、ワグナー、ブラームスなど多くの音楽家がこの家を訪れ、老リストの歓待を受けたという。
1886年、リストは孫娘ダニエラ(娘コジマと前夫ハンス・フォン・ビューローの子供)の結婚式に出席するためバイロイトを訪れたが、途中でひいた風邪が原因で、7月31日に死亡し、墓はバイロイトにある。
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