バッハ街道の旅(17)2000年5月6日(金)
ワイマール(大公家の墓所・リストの家)

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 8:51 ライプツィッヒ発、10:00 ワイマール到着。
 バッハはワイマールに1708年(23歳)から1717年(32歳)の間、宮廷オルガニストとして住んだ。
 今回の『バッハ街道の旅』は、ライプツィッヒ → ケーテン → ワイマール と、彼の人生を逆に訪ねているわけだ。

 さて、この街で僕に与えられた時間は2時間。
 さっそくタクシーに乗って大公家の墓所へ。
 まず一番遠いところに行って、そこから駅まで戻って来ようということだ。
 タクシーから見るワイマールの街は、緑の多い落ち着いた佇まいが好ましい。
 大公家墓所の入り口でタクシーを待たせて、緑に囲まれた並木道を走る。
 
この道を走ると 大公家の墓所


 墓所のカッサでチケットを買い、目指すゲーテとシラーのお墓は地下にあった。
 階段を下りるとゲーテの墓にぶつかる。
 その隣がシラー。
 写真( → )の左がゲーテ、右がシラー。
 他に20位の棺が並んでいた。
 ゲーテとシラーの棺の前には20人くらいの団体がいたので、棺の名前の確認だけしてすぐ地上に戻る。
 カッサのおばさんが『本当に下に行ったのか?』と驚いていたね (^_^;。

 2002年に『中欧・墓標をめぐる旅』平田達治(集英社新書)という本を買ったところ、そこには驚くべきエピソードが書かれていた。
 1805年シラーは40代半ばで死亡した。
 そして、ヤーコプ墓地の共同墓地に埋葬された。
 1826年に墓地の状態を調査したところ、それまで埋葬された多くの棺は既に壊れて、もう誰のものか判別できなくなっていた。
 26個の頭蓋骨が掘り出され、デスマスクと照合し、そのうちの一つがシラーの頭蓋骨と判定された。
 そして遺体の部分も掘り出された。
 翌年、この遺体は完成したばかりの大公家霊廟に納められた。
 この遺体の真偽については論争があったが、1854年の再調査で、墓地から新たに70個の頭蓋骨が掘り出され、そのうちの一つがシラーのものだとする説が発表された。
 で、今は大公家霊廟に2つのシラーの棺があるんだそうだ (@o@) 。

 隣のゲーテの棺は、1832年の死後すぐに大公家霊廟に納められたが、彼の遺体も驚くべき扱いを受けることになる。
 ‥‥これ以降は本を買ってね (^_^) 。
 
 次はリストの家( ← 写真左)。
 大ピアニストにして作曲家であったリストが1869年から86年まで住んだ、最後の家だ。
 彼は宮廷楽団の指揮者として活躍し、ワグナー、ブラームスなど多くの音楽家がこの家を訪れ、老リストの歓待を受けたという。
 
 1886年、リストは孫娘ダニエラ(娘コジマと前夫ハンス・フォン・ビューローの子供)の結婚式に出席するためバイロイトを訪れたが、途中でひいた風邪が原因で、7月31日に死亡し、墓はバイロイトにある。

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