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◇ 旧王宮 聖ヴィート大聖堂を横に見ながら王宮に向かいます。 プラハ城は14世紀のカレル4世の治世に神聖ローマ帝国皇帝の居城として、その黄金時代を迎えました。 ルドルフ2世もプラハ城を神聖ローマ帝国皇帝の居城としました。 しかし、ルドルフ以後の皇帝はウィーンに宮廷を移したため、プラハ城は寂れました。 1918年チェコスロヴァキアが独立すると、初代大統領のマサリクは王宮を大統領官邸として整備しました。 王宮に入るとすぐ、巨大なヴラジスラフ・ホールがあります。 このホールから南に張り出しているのが、プラハ窓外放擲事件の現場となったルドヴィーク翼です。
◇ プラハ窓外放擲事件 このルドヴィーク翼が三十年戦争の発端となった「プラハ窓外放擲事件」の現場です。 1609年、ルドルフ2世は「皇帝勅書」で信教の自由を認めました。 しかし、ルドルフの弟マティアスは、プロテスタントの権利の制限に転じました。 このことに怒ったボヘミアのプロテスタント貴族は1618年5月23日プラハ城に押しかけ、この部屋の左の窓から、ハプスブルク家の代官ヴィレーム・フルム・スラヴァタ、ヤロスラス・ポジタ・マルティニッツ、そして秘書官のファブリツィウスを投げ落としたのです。 マティアス帝は1619年に死亡し、その後継者がカトリックの狂信者フェルディナンド2世でした。 そして、1620年11月8日のビラ・ホラの戦いで、ボヘミア軍は壊滅的な被害を受け、多くのプロテスタント指導者が処刑されたことは、この旅行記でも何度もふれました。
さて、窓から落とされた役人たちは、危うく一命を取りとめました。 その場所には「スラヴァタのオベリスク」が建てられています。
◇ 黄金小路・カフカの家 なおも奥に進みますと、有名な「黄金小路」がありました。 かつて錬金術師たちが住んだと言われています。 22番の青い家が、フランツ・カフカ(1883〜1924)が住んだ家です。
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