ザルツブルク紀行 2007
15)旧トラップ大佐邸/アイゲン 07年8月15日(水)
サウンド・オブ・ミュージックを究める(5)

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 07年8月15日(水)、今日はアイゲンの旧トラップ大佐邸から、「自信を持って」が歌われたフローンブルク宮殿を目指します。
 まず、ザルツブルク周辺を回るのに必携品である「バス路線図」を掲載しておきます。
 中央駅のインフォメーションで頂いた貴重品です (^_^) 。



 中央駅からOBUS(トロリーバス)6番から7番を乗り継いでアイゲンに向かいます。
 と、途中で乗り込んできた女性車掌による乗車券チェックが始まりました (@o@)。
 僕はザルツブルクカードを見せてOKだったのですが、このおじさんはお金が無くて、次のバス停で下ろされ、男性係員に連行されてしまいました (@o@)。

OBUS(トロリーバス) 無賃乗車で連行されるおじさん


 地図によればアイゲンにはSバーンの駅があるので、商店街があるだろうと思っていたのですが、バスの運転手さんに降ろされたのは何もない道端でした。
 「ここがアイゲン?」「そのとおり」ということで、タクシーを拾おうと考えていた僕は困ってしまいました。

 ザルツブルクに戻り、タクシーで出直そうか?
 しかし、気持ちを落ち着かせて周囲を見回してみると、目の前の建物がSバーンの駅に見えてきました。
 そして、その前にドアを開けて停まっているのはタクシーではありませんか!
 新聞を読みながらやる気が無さそうなおじさんに「タクシー?」ときくと「そうだ」との返事で、地獄から天国です (^_^) 。

ここでバスを降ろされた アイゲン駅とタクシー


 さっそく旧トラップ大佐邸に向かいました。
 1925年、夫人を32歳の若さで亡くしたゲオルグ・フォン・トラップ大佐は、残された7人の子供を連れてこの家に引っ越してきました。
 そして1926年、病気がちだった娘マリアのために住み込みの家庭教師を頼んだのが20歳の見習い修道女マリア・クチェラでした。
 やがて大佐は彼女に求婚し、彼らは1927年11月27日にノンベルク修道院で結婚式をあげました。
 1933年、オーストリアを襲った金融恐慌によってトラップ家の財産を預けていた銀行が倒産し、大佐は財産を失いました。
 マリアはこの家を下宿として貸し出し、家計の足しにしました。
 ファミリー合唱団としての活動も始めました。

 1938年、オーストリアはナチスに併合され、トラップ家はこの家を去り、アメリカに亡命する事になりました。
 トラップ邸はナチスに接収され、ナチスの大物ハインリッヒ・ヒムラーの屋敷となりました。
 ヒトラーもしばしばこの屋敷を訪れたそうです。

 旧トラップ邸は正門が開いておりまして、タクシーはどんどん邸宅に入っていきます (@o@)。
 オーストリアでは門が開いている家には勝手に入って良いのでしょうか?
 ありがたく写真を撮らせて頂きましたけれど (^_^ゞ。

旧トラップ大佐邸前の道 正門が見えてくる
タクシーはどんどん入っていって 旧トラップ大佐邸


 《サウンド・オブ・ミュージック》 故郷でようやく光

 朝日新聞2010年7月22日の記事です。
 玉川透記者によるこのレポートは細かい調査が行き届いており、僕が知りたかった情報が満載で感服しました。

 モーツァルトが生まれ育った古都ザルツブルク中心部から車で15分。閑静な住宅地にひっそりとたたずむ黄色い館が、サウンド・オブ・ミュージックのモデル、トラップ一家が住んでいた邸宅だ。
 「トラップ一家と同じ、苦難の道のりだった」。この春まで、館を宿泊施設ビラ・トラップとして経営してきたクリストファー・ウンターコフラーさん(46)は振り返る。

 1863年築の館は、一家が1923年から15年間住んだ後、ナチスに没収され、親衛隊長ヒムラーらが居住。戦後は地元修道院に渡り、一般には長く公開されなかった。

 2008年夏、ウンターコフラーさん夫婦が修道院から借り受け、14部屋のホテルとして開業すると発表すると、世界中から予約が殺到。一家ゆかりの品々を展示する博物館やテーマパーク建設の構想も持ち上がった。

 ところが、観光客の増加による交通渋滞や騒音を恐れた近隣住民が反対運動を展開。08年12月、ザルツブルク市はホテルとしての営業は認めないことを決めた。仕方なく、5部屋を許可のいらない「貸部屋」にする形で営業を始めたが、米国や日本などから泊まりに来る熱心なファンが後を絶たず、利用者は年間3千人以上に達したという。

 転機は今年4月。地元政治家らの仲介で、博物館やテーマパークを断念することなどを条件に住民側との和解が成立し、ようやく正式なホテルとして市の許可が下りた。今後は1泊198ユーロ(約2万2千円)のダブルから430ユーロのスイートまで12部屋で営業し、2階のチャペルでは結婚式もできるようにする。

 トラップ氏の孫娘で米バーモント州に住む歌手エリザベス・フォン・トラップさん(56)も、お祝いに駆けつけた。「サウンド・オブ・ミュージックの素晴らしさが、オーストリアの人々にようやく分かってもらえた」と喜ぶ。

 ザルツブルク市には年間600万を超す観光客が訪れるが、その大半を占める外国人客の目当てはモーツァルトとサウンド・オブ・ミュージックだ。市内には、主人公マリアと子どもたちが「ドレミの歌」を歌ったミラベル庭園など映画の舞台があちこちにあり、ロケ地を巡るバスツアーが70年代から定番の観光コースになっている。

 だがその名作も実は地元ではなじみが薄く、多くが存在を知らない。映画の受けもいま一つで、1965年に封切られた際は、不人気で早々に上映が打ち切られたという。主人公らが歌う「エーデルワイス」などの曲やセリフの言い回し、民族衣装などが、地元の目には不自然に映り、受け入れられなかったようだ。

 「我々は革のズボンをはいて野山を走らないし、ヨーデルも歌わない。すべて米国が作り出した幻想だ」。トラップ邸近くで生まれ育った農家のルペット・ボルフさん(53)はそう話した。ホテル化計画に地元が冷たかった背景には、そんな意識も絡む。

 観光客との摩擦はほかにもあった。地元の声を受け、市側は映画でトラップ邸の正面玄関に使われた城へのバス乗り入れを制限。主人公たちが愛を誓うシーンで有名な城内の東屋(あずまや)も、「混雑の原因」として別の場所に移された。さすがにこの時は、世界中から抗議が殺到したという。

 地元の反発の根底には、第2次大戦で味わった苦い過去が影を落としている。「ナチスに踏みにじられ、他国の占領下に置かれた屈辱を、誇り高いオーストリアの人々は受け入れたくなかった」。そう語るのは、ウィーンにある「第三の男ミュージアム」のゲルハルト・シュトラスグシュワントナー館長(50)だ。敗戦後のウィーンが舞台の映画「第三の男」(英、49年公開)も地元では不評だった。

 しかし、一昨年の金融危機後、外国人観光客数が伸び悩んだことがきっかけで、改めて光が当たり始めた。

 ザルツブルク州立劇場は来年9月から、地元の劇場としては初めてミュージカルを上演する。オーストリアや南ドイツなどのこれまでサウンド・オブ・ミュージックになじみが薄かった人をターゲットに、英語の歌以外はセリフをすべてドイツ語にし、マリア役なども地元の役者を中心に公募するという。

 ミュージカルは、ウィーンなどで何度か上演されたが、映画と同様、地元の評判はいま一つだった。カール・マルデゲム監督(40)は「世界を魅了した素晴らしいステージを、見もしないで敬遠しているのはもったいない」と話す。

 トラップ邸のホテル化やミュージカルの試みに観光業界は期待を寄せている。地元に再評価されれば、新たな客層の掘り起こしにつながるからだ。市観光局の責任者クリスチャン・ピラーさんは「サウンド・オブ・ミュージックはモーツァルトと並ぶザルツブルクの貴重な財産。利用しない手はありません」と話す。
 
 
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