『パリ お墓とオペラの旅』 2011年5月3日(火)
31)アンドレ・シェニエ と ロベスピエール(コンシェルジュリー)
  
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 コンシェルジュリーの一角に「ジロンド党員の礼拝堂」があり、壁に一枚の絵が掛けられていました。
 何となく説明を読んでいた僕は、中央の椅子に座る人物が、ジョルダーノのオペラ《アンドレア・シェニエ》(1896年初演)のモデルであるアンドレ・シェニエ(1762~1794)その人であることに気が付いてビックリしてしまいました。
 「アンドレア・シェニエ」とは「アンドレ・シェニエ」のイタリア語読みだそうです。

 この絵の題名は「恐怖政治の最後の被害者たち」というらしく、処刑を待つジロンド党の人々が描かれているようです。
 その中央に描かれるとは、シェニエはかなりの重要人物だったようです。
 
ジロンド党員の礼拝堂 中央に座っているのがシェニエ
アンドレ・シェニエ 解説板 「7」がシェニエ


 25歳の時に駐英大使の秘書としてロンドンに赴任したシェニエは、フランス革命に共鳴して帰国し、穏健中道派の論客として知られるようになりました。
 やがてシェニエはジャコバン党と対立するようになり、危険を感じて身を隠しましたが、1794年3月7日パリに潜伏中に逮捕され、7月25日に処刑されました(享年31歳)。

 ということは、このコンシェルジュリーがオペラ《アンドレア・シェニエ》第4幕の舞台ということになるのでしょうか。
 オペラではシェニエが投獄されたのはサン・ラザール監獄となっていますが、コンシェルジュリーとの関係は?

 シェニエと同じ7月25日には38人が処刑されました。
 処刑はロベスピエールが「テルミドール(熱月)のクーデター」で失脚した7月27日まで行われ、27日も45人が処刑されたそうです。

 ロベスピエールは7月28日午前2時に市庁舎で逮捕されるときピストル自殺を図り、顎が吹き飛ぶ重傷を負いました。
 彼はコンシェルジュリーの看護室に運ばれ治療を受けました。

 なんと! コンシェルジュリーはマリー・アントワネットやアンドレ・シェニエと同じく、ロベスピエールが最後の時間を過ごした場所でもあったのです (@o@)。

 7月28日午後5時にロベスピエールたち22人は革命広場で処刑されました。
 ロベスピエールは顎の傷をハンカチで隠していたそうです。
 享年36歳でした。

再現された監獄 ロベスピエール


 外に出てセーヌ川に掛かるシャンジュ橋から見るコンシェルジュリーは修復工事中で、ディオールの広告で覆われていました。
 セーヌ川には観光船が多くの観光客を乗せて通り過ぎます。
 いま見たばかりの残虐なフランス革命の歴史とあまりにも平和な現在のパリの景色の落差に、しばし呆然としていました。
 
コンシェルジュリーは修復工事中 セーヌ川の観光船

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