チロル&ザルツブルク 落ち穂拾いの旅
14)インスブルック王宮  2012年5月1日(火)

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 市内観光は王宮から始めました。
 王宮の内部はあまりにも広く、多くの肖像画が掛けられ、説明はドイツ語だし、よく分からないまま一周してきました。
 王宮内はウィーンの王宮と同じく撮影禁止となっていましたので、何を見たのか思い出すことができません (^_^; 。

 さすがに王宮だけあって、この建物には多くの有名人が登場しています。

 この王宮は最初1460年にチロル公ジギスムントによって建てられました。
 ジギスムントは晩年になって金遣いが荒く酒色に溺れ、莫大な借金を抱えることになりました。
 1490年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世の調停により、チロル領は借金と共に、フリードリヒの息子であるマクシミリアンに継承されました。
 当時ローマ王であったマクシミリアンはインスブルックに都を開きました。

 マクシミリアンは「中世最後の騎士」と呼ばれた英雄で、1493年8月に父フリードリヒ3世の死に伴い神聖ローマ皇帝に選出されました。
 1500年、インスブルックの町のシンボル「黄金の小屋根」が建設され、このロイヤルボックスから皇帝マクシミリアン1世は広場での騎馬戦などの演し物を楽しんだそうです。
 マクシミリアン1世は自らの結婚によりブルグンド(ベネルクス3国のあたり。首都はブルージュ)を、子供達の結婚によりイベリア半島の大部分と、ナポリ、シチリア、新大陸アメリカを、孫達の結婚によりハンガリーとボヘミアを獲得し、一地方領主であったハプスブルグ家を『日の沈むことの無い』世界帝国へと育て上げました。
 「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」ということですが、彼は広い領土を治めるための戦いに東奔西走することになります。
 マクシミリアン1世は芸術を愛し、自らの旅に楽団を同行させました。
 彼はウィーン少年合唱団の創設者であり、画家アルブレヒト・デューラーの庇護者としても知られています。

ノルトケッテを背景にした王宮  


 女帝マリアテレジアはインスブルックを愛し、1754年地震と火事で崩れかけたこの建物を、現在のロココ調に改築しました。
 1765年インスブルックでマリア・テレジアの次男レオポルト2世とスペイン王妃マリア・ルドヴィカの結婚式が行われました。
 式典の期間中にマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが急逝しました。
 マリア・テレジアは夫の死を深く悲しみ、夫が没した地インスブルックに設置された凱旋門は、結婚を祝福する歓喜と、もう片面は哀悼を表したものとなりました。
 レオポルト2世は兄ヨーゼフ2世亡き後に神聖ローマ帝国皇帝となり、フランス革命時には妹マリー・アントワネット救出のために心を砕きました。

 1809年8月13日の第3次ベルクイーゼルの戦いでフランス軍、バイエルン軍を破りインスブルックを取り戻したアンドレアス・ホーファーは、すでにナポレオンに降伏したウィーン政府を頼らず、自らチロルの摂政としてこの王宮に住み、新しい法律と税を作り、貨幣を鋳造しました。
 しかし、10月14日にウィーン政府がチロルを正式にバイエルンに譲渡したため、ホーファーは降伏し、大赦を受け、故郷に戻りました。
 
 1848年3月、フランスの2月革命に続きウィーンでも3月革命が起こり、メッテルニヒはイギリスに亡命し、オーストリア皇帝フェルディナント1世が退位しました。
 ウィーン宮廷は一時的にインスブルックに移され、フランツ・ヨーゼフと母ゾフィはインスブルックの王宮に逃れました。
 ゾフィーの妹ルドヴィカは子供たちを連れてミュンヘンからインスブルックの姉を訪ねました。
 この時初めて、18歳のフランツ・ヨーゼフと11歳のエリザベートが出会いました。
 しかしフランツ・ヨーゼフにとって11歳のシシはあまりにも子供でした。
 むしろ15歳の弟カール・ルードヴィッヒがシシに夢中となり、文通を交わす仲となりました。

 1848年12月2日、フランツ・ヨーゼフはモラヴィアのオロモウツでオーストリア皇帝に即位しました。
 23歳のフランツ・ヨーゼフと15歳のエリザベートがバート・イシュルで再会するのは、1853年8月16日のことになります。
 
 王宮入口の前にあるザッハーで休憩。
 月並みですが、ザハートルテを食べておきました。
 
王宮入口の前にあるザッハー ザッハートルテ
 
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