前へ ホームページへ 紀行目次へ 次へ 后妃エリザベート関連史跡 |
今日は今回の旅行最大の目的地であるコルフ島(ケルキラ島)を訪れます。 最初に書いたように、僕はウィーンミュージカル《エリザベート》が大好きで、舞台になった場所を尋ねています。 そして最後に残ったのがこのコルフ島なのです。 《エリザベート》のシーン9は「コルフ島の別荘のロッジア(涼み廊下)」。 降霊術でハイネの霊を待っているエリザベートに、父親のマックス公爵の声が聞こえてきます。 この曲のポイントは最後の『アデュー・シシ!』というマックス公爵の別れの言葉で、エリザベートの最大の理解者であった父親の死を暗示しています。 だから、この場面が1888年11月15日頃の出来事だと分かるわけです。 実際にはエリザベートは父親とは不仲で、父親の葬儀には参加しなかったという話もあります。 コルフ島に有名なアキレイオン荘が完成するのは、この後1891年のことになります。 さて、アテネ発7:00(早朝で辛かったです)のオリンピア航空で8:05ケルキラ着。 コルフ島はエーゲ海ではなく、イオニア海にあります。 イタリア半島のかかとのあたりで、ギリシャの最も西北に当たります
ここで、后妃エリザベートとコルフ島について調べてみました。 咳が止まらないため1860年(22歳)から大西洋のマデイラ島で療養生活を送っていたエリザベートは、経過がはかばかしくないため療養の地を求めて地中海を彷徨いました。 そして1861年5月15日(23歳)、エリザベートは初めてコルフ島を訪れ、この島がすっかり気に入ってしまいました。 エリザベートは5月18日にコルフ島を発ちました。 ウィーンに帰るとすぐ体調を崩したエリザベートは、またコルフ島にやってきました。 そして6月27日から10月下旬にかけて、コルフ島に長期滞在しました。 それからしばらくはコルフ島から足が遠のきましたが、1885年10月(47歳)、トロイヤの遺跡を訪れるときに立ち寄りました。 1886年6月13日(48歳)、ルートヴィヒ二世が溺死。 1887年10月〜11月(49歳) コルフ島領事でギリシャ古典学者のヴァルスベルク男爵を案内役に、ギリシャの島々を回りました。 男爵の案内を受け、エリザベートはギリシャがすっかり好きになってしまいました。 エリザベートには語学の才能があり、日常会話もギリシャ語でしたそうです。 1888年8月19日(50歳)にエリザベートはバイロイトで《パルジファル》を観劇し、ワーグナーの未亡人コジマと面会しました。 そして10月〜11月にかけて再びコルフ島に滞在し、ヴァルスベルク男爵を案内役に、ギリシャの島々を回りました。 この頃にはすでにエリザベートはコルフ島に別荘(アキレイオン荘)建設し、隠棲する事を考えていました。 1888年11月15日 父マキシミリアン公爵死亡。 1889年1月30日(51歳)マイヤーリンクでルドルフの自殺。 1891年10月(53歳)にアキレイオン荘完成。
タクシーに乗りアキレイオン荘(アヒリオン)に向かいます。 この日にアキレイオン荘が開館していることは、マリソル社に確認を取ってもらいました。 |