額田女王の旅 3)大津京 2005年10月23日(日) |
びわ湖ホール《スティッフェリオ》観劇の前に、「額田女王の旅」として大津の史跡をめぐってきました。 ◇近江大津宮錦織遺跡(おうみおおつのみやにしこうりいせき) 667年、白村江の戦いの敗戦を受け、中大兄皇子は都を近江大津宮に移しました。 このとき額田女王は「味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山のまに ‥‥」と明日香との別れを詠いました。 668年、中大兄皇子は即位(天智天皇)しました。 京阪電鉄近江神宮駅の近くで大津京の一部が発掘され、「近江大津宮錦織遺跡」と名付けられています。 大津京の時代、このあたりは湖に面していたそうで、遺跡は発掘調査のあと、埋め戻されたそうです。
◇近江神宮 近江神宮は天智天皇を祭神とし、昭和15年に創建されました。 七五三のお参りの子供が多く、着飾った姿がほほえましい。 境内には天智天皇ゆかりの漏刻(水時計?)が再現され、時計歴史館がありました。 天智天皇は百人一首の「秋の田の‥‥」を詠った歌人であり、一月初旬には近江神宮で百人一首の全国大会が開かれるそうです。
◇御陵(みささぎ)・天智天皇山科陵 671年12月3日、天智天皇は崩御しました(享年46歳)。 大海人皇子は吉野に去り、大友皇子の治世が始まりました。 大友皇子の妃は額田女王と大海人皇子との間に生まれた十市皇女でした。 そう、大友皇子の治世が続けば、額田女王の孫が天皇となったのです。 天智天皇の御陵造営のため美濃の兵を集めたことが、壬申の乱の引き金となりました。 蘇我入鹿、古人大兄皇子、有馬皇子、と、天智天皇はあまりに多くの人々を殺しすぎました。 大海人皇子が「次は自分が殺される」と考えたのも無理はありません。 天智天皇の后であった額田女王は、この御陵を「やすみしし わご大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の‥‥」と詠っています。
◇ 大友皇子の墓・弘文天皇陵 672年に起こった壬申の乱は、額田女王にとって身を引き裂かれるような出来事だったでしょう。 かつての恋人であった大海人皇子と、自分の娘(十市皇女)が嫁いだ大友皇子が皇位を賭けて戦ったのですから。 戦いに敗れた大友皇子は、山前で首を吊って自害しました。 享年25歳。 皇位継承者が自ら戦いの先頭に立ち、破れて自害するなどということは、めったにあることではありません。 降伏すれば命は助けられたでしょうが、それを潔しとしないとは、さすが高邁を称えられた大友皇子です。 明治天皇は明治3年に大友皇子に弘文天皇の追号を送り、皇子が自害した山前の地に御陵を造営しました。 その弘文天皇陵は、大津市役所の裏にありました。
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