大学病院めぐり・福井&富山 (5)呉羽山からの立山連峰
2007年2月25日(日)

前へ  福井・富山の目次  気まぐれ日本紀行07  ホームページへ  次へ
 
 
 この日はありがたいことに立山連峰が綺麗に見えていましたので、呉羽山(くれはやま)に登ってみました。
 立山連峰は富山市の東にあるため、朝は真っ暗。
 時間が経つに連れ、徐々に日が当たってきます。

 呉羽山は複数の山の総称で、 最高地点城山の標高は145.3m。
 呉羽山公園展望台からの眺望は、富山市のキャッチフレーズである「立山あおぐ特等席」を実感させてくれます。
 
 展望台に立っている少年は、立山を開山したという伝説の少年佐伯有頼です。
 
呉羽山公園展望台 伝説の少年佐伯有頼の像
左から見ていくと この山が 剣岳 ↑
弥陀ヶ原 この辺 ↑ が印象的 屏風のように連なっている


 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、家康・信雄方に付いた佐々成政は、秀吉と信雄との和解で、梯子を外されました。
 進退が窮まった成政は、11月23日に富山を出発し、厳冬の立山を越えて浜松に到着し、12月25日には家康と面会し、再挙を促しました。
 これが「さらさら越え」と言われるものですが、しかし結局説得は功を奏せず、壮挙は失敗に終わりました。

 翌1585年8月、秀吉自ら越中征伐に乗り出しました。
 秀吉は富山城を十万の大軍で包囲し、その中には織田信雄の姿もありました。
 結局、成政は信雄の仲介により、8月19日降伏しました。

 呉羽山の山麓には「佐々成政剃髪の碑」が建っています。
 この辺りは「民俗民芸村」として、いくつかの施設が公開されています。

佐々成政剃髪の碑 売薬資料館


 その後、佐々成政は秀吉に肥後の国を与えられますが、検地を焦ったため国人の一揆を引き起こしました。
 その責任を問われた成政は、天正16年(1588年)閏5月15日、尼崎の法園寺で切腹させられました。
 享年53歳だったとされています。

 このように悲惨な最期でしたが、成政の子孫には有名人が多い。
 中でも次女岳星院は秀吉の世話で鷹司信房に嫁ぎ、その娘は徳川家光の正夫人となっているそうです (@o@)。
 もし子供が生まれていれば、成政は徳川将軍のひいお祖父さんになっていたようです。

 画家の狩野探幽や、大石内蔵助の妻理玖も子孫らしい。
 佐々一族では、佐々助三郎(助さん)、紀平梯子、佐々淳行などなど、多士済々です。
 
 
前へ  福井・富山の目次  気まぐれ日本紀行07  ホームページへ  次へ