新府城 & 景徳院 02年8月 &4月

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 織田軍の侵攻に備えるには躑躅ヶ崎館ではあまりに防御が弱く、天正9年(1581年)武田勝頼は真田昌幸に命じて新府城を築きました。
 工事は急ピッチで進められましたが、その負担により、木曽義昌ら味方武将の反発を買いました。
 勝頼は天正9年(1581年)12月に、甲府の躑躅ヶ崎館から韮崎の新府城に移りました。

 02年8月25日、僕は新府城を訪れました。
 JR中央東線韮崎駅の一つ北に当たる新府駅は無人駅で、回りには何も無し。
 タクシーで新府城に行こうと思っていた僕は、すっかり当てが外れてしまいました。
 新府城は遠く暑かった (^_^; 。
 
JR中央東線 新府駅 新府城
急な階段の上にある 立派な城郭であったようです
新府城の敷地は広い 新府城からの眺め


 天正10年(1582年)2月1日、木曽義昌らの寝返りにより、織田・徳川連合軍は木曽路から甲斐に侵攻してきました。
 この報を受け、勝頼夫人は2月19日に武田八幡宮に願文を奉納しました。

 しかし織田軍の侵攻は続き、2月28日高遠城陥落。 仁科信盛戦死。
 3月1日、穴山梅雪が徳川へ寝返り。

 3月3日、勝頼らは新築の新府城に火をかけて郡内領主小山田信茂の居城である岩殿城を目指して落ち延びました。
 16歳の信勝は「新府城を枕に討ち死に」を唱えたそうで、彼が成長すれば立派な武田家の後継者になったかも知れません。

 しかし頼みとする小山田信茂の裏切りにあい、天目山を目指すも織田勢の滝川一益に攻められ、3月11日に田野において、北条夫人、息子信勝とともに自刃しました。
 名門武田氏のあまりにも惨めな最後です。

 勝頼37歳。夫人19歳。信勝16歳。
 夫人辞世の句は「黒髪のみだれたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒」でした。

 勝頼夫人が武田八幡宮に願文を奉納してから武田家滅亡まで一月も経っていません。
 何という早い時間の流れでしょう。

 勝頼は夫人に実家である北条家に帰るよう勧めたそうですが、彼女は勝頼との死を選びました。
 彼女は優しい勝頼を愛していたのでしょうし、「御館の乱」で裏切った実家に帰るわけにも行かなかったのでしょう。
 
 武田家が滅びた天正10年の7月、徳川家康は勝頼の死を弔うため景徳院を建立しました。

 02年4月28日の夕方にレンタカーで訪れた景徳院は、薄暗く不気味でした。

薄暗い景徳院 勝頼夫人生害石
景徳院山門 勝頼、北条夫人、信勝の墓が並ぶ
 
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