続・太宰治の『津軽』を巡る (6)金木「太宰治疎開の家・新座敷」 2009年9月20日(日) |
![]() 金木の町には「太宰治疎開の家・新座敷」という案内板が多く見られました。 06年の『津軽』を巡る旅行の時にこのような建物はありませんでしたので、行ってみました。 この「新座敷」は、今回の旅行最大の驚きとなりました。 昭和20年4月2日、太宰が住む三鷹は空襲を受け、太宰は命からがら甲府にある夫人の実家に逃げてきました。 美知子夫人や子供らは既に実家に疎開していました。 ところが昭和20年7月6日に今度は甲府が空襲を受け、実家は全焼してしまいました。 行き所が無くなった太宰一家は金木に疎開することとし、電報を1本打っただけで、昭和20年7月28日に甲府を出発し、31日に太宰の実家(やま源)に辿り着いたのでした。 この辺りの事情は津島美知子『回想の太宰治』に詳しく書かれています。 僕は太宰の作品より『回想の太宰治』の方がずっと面白いんです (^_^ゞ。 金木で太宰一家は「やま源」の奥に住んでいたそうです。 斜陽館に行かれた方は御存知でしょうが、斜陽館の一番奥にあるのは土蔵です。 僕は何となく「太宰一家は土蔵に住んでいたのか」と思っていたのですが (^_^; 、太宰一家が住んだのは土蔵の奥に建てられていた離れだったのです。 その離れが昔のままの姿で残されていて、2007年冬から「新座敷」として一般に公開されていたとは、ただただ驚き興奮しました。
「新座敷」は大正11年(太宰14歳)、津島家の跡取り、文治の結婚を機に新築されました。 新座敷は当初、「やま源」の奥に隣接する形で建てられていました。 しかし終戦後、マッカーサーによる農地改革で地主制度が崩壊し、また県知事、衆議院議員、参議院議員と政治道楽に資産を使い果たした文治は、昭和23年「やま源」を手放すことになります。 その際、新座敷だけを家族の住まいとして現在地まで移設したのです。 太宰は「やま源」売却の話を聞き、「わずか250万円か!」と、その金額の安さを悔しがったそうです。 太宰が玉川上水に入水したのは同年6月13日の深夜でした。
昭和17年の秋、長く実家と疎遠になっていた太宰は妻と長女を連れ、重態の母を見舞ったのでした。 そしてこの新座敷で死の床についている母親と対面し、洋間で涙をこらえたエピソードを小説『故郷』に書きました。 昭和19年には小説『津軽』の旅がありました。 そして終戦直前の昭和20年7月31日、太宰は家族と共に新座敷に疎開しました。 太宰はこの家で「パンドラの匣」など22作品を執筆しました。 なんという旺盛な製作意欲でありましょうか。 太宰は昭和21年11月11日に再上京するまでのおよそ1年4ヶ月をこの家で暮らし、再上京後この家に帰ることはありませんでした。
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