太宰治『津軽』 落ち穂拾い 2013年5月6日(月・祝) 7)小泊 越野タケ 略年譜 小説『津軽』の像記念館 |
2時35分、弘南バス小泊バスターミナルに到着。 小説『津軽』の像記念館は「ふれあい運動場」の反対側にあり、右に行っても左に行っても距離はそれほど変わらないそうです。 「太宰とたけ再開の道」の石碑は何が書かれているのか分からない不思議な石碑で、小泊には全部で6つの石碑があるそうです。 そして「小説『津軽』の像記念館」に到着しました。 雨は強くなり、五所川原への帰りのバスは5時15分発ですから、4時30分の閉館時間までこの記念館で、受付のお嬢さんと二人で2時間を過ごすことになりました。 タケさんが海岸で孫と遊ぶビデオとか新聞などの資料があって、時間を持て余すことはありませんでした。 この記念館で気に入らないのは内部が撮影禁止だということ。 一日に数人来館者があるかどうかの記念館なら、もったいぶって撮影禁止にすることはないだろうと思います。 太宰の娘の園子の絵画や、タケの夫の肖像写真があったような記憶がありますが、写真に撮っておかないと忘れてしまいます (^_^ゞ。
◇越野タケ 略年譜 ・明治31年(1898年)7月14日近村永太郎、トヨの四女として金木村で誕生。 ・明治44年(1911年)13歳:5月3日から満2歳の修治の子守役(アダコ)として津島家に奉公入りし、朗読や道徳を教える。 ・大正5年(1916年)18歳:1月18日津島きゑ一家五所川原へ分家(津島歯科医院)。 ・大正6年(1917年)19歳:きゑ家の女中としてタケが津島本家から派遣される。 タケが修治の子守をした期間は、数えの14歳から20歳まで6年8ケ月でした。 ・大正7年(1819年)20歳:7月字小泊の船大工越野正代(こしのまさしろ・27歳)へ後妻として嫁ぐ。 正代には一人の女児がいました。 ・大正8年(1820年)21歳:3月借家が火事に遭う。 12月小泊250番地の土地を求め、三富商店(後に越野金物店)として開店。 ・大正11年(1922年)24歳:長男美治助誕生。 ・昭和5年(1930年)32歳:五女節誕生(太宰と会った娘)タケは生涯に11人の子供(男2人、女9人)に恵まれました。 ・昭和15年(1940年)42歳:6月夫正代死亡(49歳)。 ・昭和19年(1944年)46歳:5月27日、太宰と30年ぶりの再会(太宰35歳、タケ46歳)。 ・昭和21年(1946年)48歳:4月文治の選挙当選の祝いもあって、タケは山源を訪れ、疎開中の太宰と会っています。 津島美知子『回想の太宰治』によれば、太宰はタケに一言も掛けず、匆々と立ち去ったそうです。 同書によれば、同年8月にも太宰とタケは山源で会っています。 ・昭和23年(1948年):6月13日、太宰治(39歳)山崎富栄と心中。 ・昭和40年(1965年)67歳:太宰の墓参りのため上京。 ・昭和58年(1983年)85歳:12月15日死亡。墓地公園墓標120。
太宰が訪ねて来たとき、タケは4年前に夫を亡くし、金物店を切り盛りしながら、たくさんの子供の子育てに必死の状態だったと思われます。 そんなタケが「三十年近く、タケはお前に逢いたくて、逢えるかな、逢えないかな、とそればかり考えて暮らしていた」などと太宰に語るはずがありません。 それから続くタケの感動的な言葉もすべて妄想の世界なんですから、驚いてしまいます。 しかし文学作品というものの持つ力は凄いものがあります。 真偽を確かめるためとはいえ、僕を何度も津軽半島の先まで来させてしまうんですから (^_^; 。 小説『津軽』が無ければ、越野タケさんがいなければ、小泊という街が知られることはなかったでしょう。 運動場ではタケと話をする時間がなかった太宰ですが、この日はタケの金物屋に一泊しました。 太宰はタケと二人で話しましたが、太宰がしつこく聞いたのは「自分は本当は五所川原の叔母きゑの子供ではないのか?」ということだったそうです。 |