太宰治の旅 碧雲荘(荻窪) 2015年7月19日(日)

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 杉並公会堂大ホールで開催された「マリオ・デル・モナコ生誕100年 & レナータ・テバルディ没後10周年 記念ガラ・コンサート」を聴きに東京まで来ました。
 コンサートの前に、杉並公会堂の近くにある太宰治と小山初代が住んだ碧雲荘に行ってきました。
 この日の東京は怖ろしく蒸し暑かったです。

 太宰治はパビナール中毒治療のため、1936年(昭和11年)10月13日(?)武蔵野病院の監禁病棟に強制収監されました。
 結核を治すつもりで来た太宰は「きちがい病院」に入院させられと知り、恐怖のどん底に突き落とされました。
 太宰の入院については、パビナール中毒を心配した初代が青森の文治に手紙を書き、文治の指示で初代、中畑慶吉、北芳四郎の3人が相談し、井伏鱒二を巻き込んで精神病院に入院させたわけです。

 太宰は順調に回復し、11月12日に初代と一緒に自動車で退院し、初代が探しておいた荻窪天沼の照山荘アパートに帰宅しました。
 しかし太宰はこのアパートが気に入らず、15日に、初代と井伏夫人とが探した天沼の碧雲荘2階の8畳間に移りました。

 JR荻窪駅から荻窪税務署の角を入ると、すぐに碧雲荘がありました。
 密林状態の廃墟となっていましたが、太宰が実際に住み、小説の舞台となった建物を見ることは感慨深いものがあります。

JR中央本線 荻窪駅 荻窪駅前
右手が荻窪税務署 赤い車が出てくる道を入る
 
 
 太宰は4月1日付発行の「新潮」4月号に『HUMAN LOST』を発表しました。
 日本語に訳せば『人間失格』でしょうか。

 先ほども書いたように、太宰の入院に関係したのは、初代、中畑、、北、井伏の4人です。
 しかし『HUMAN LOST』の「妻をののしる文」を読むと太宰の怒りは初代に向けられているようです。
 「無智の洗濯女よ。妻は、職業でない。妻は、事務でない。ただ、すがれよ、頼れよ、わが腕の枕の細きが故か、猫の子一匹、いのち委ゆだねては眠って呉れぬ。」

 しかし他の3人とは、太宰の死まで付き合いがあったようです。
 昭和17年に発表された『帰去来』、昭和18年に発表された『故郷』によれば、太宰は中畑慶吉、北芳四郎の仲介で金木の実家との関係を修復することが出来ました。

 太宰は『HUMAN LOST』脱稿後の11月25日、太宰は熱海の村上旅館に逗留しました。
 しかし、いつまでたっても太宰は帰らず、初代は檀一雄に金を渡して「様子を見て来て欲しい」と依頼したのですが、ここから『走れメロス』のインスピレーションともなった「熱海事件」が起こるのです。

すぐに庭木が茂った家があって ここが碧雲荘


『東京八景』
 私は天沼のアパートに帰り、あらゆる望みを放棄した薄よごれた肉体を、ごろりと横たえた。私は、はや二十九歳であった。何も無かった。私には、どてら一枚。Hも、着たきりであった。もう、この辺が、どん底というものであろうと思った。長兄からの月々の仕送りに縋すがって、虫のように黙って暮した。
 けれども、まだまだ、それは、どん底ではなかった。そのとしの早春に、私は或る洋画家から思いも設けなかった意外の相談を受けたのである。ごく親しい友人であった。私は話を聞いて、窒息しそうになった。Hが既に、哀しい間違いを、していたのである。

 太宰の入院中に面会を禁じられた初代は、太宰の姉きゃうの義弟、小館善四郎の看病(自殺未遂)を頼まれます。
 その時に「哀しい間違い」があったのです。
 もちろん二人はこのことを秘密にすることを誓いました。

 しかし、小館善四郎は太宰から受け取った手紙(11月29日付)を読んで、秘密が暴露したと勘違いしてしまいました。
 翌12年3月上旬に卒業作品提出のために上京したとき、碧雲荘の便所で太宰と並んで用を足しながら、善四郎は初代との関係を打ち明けてしまいました。
 太宰は平静を装いましたが、内心は強い衝撃を受けました。
 そして、初代を追及し過失を告白させました。

 その後、太宰は「初代と善四郎は太宰の前にかしこまって、結婚を申し込んだ」と友人に語ったそうですが、姉の嫁ぎ先の義弟と初代が結婚できるはずがありません。

玄 関 前の家が取り壊され、全景が見える
 
 
 3月中旬、太宰と初代は谷川温泉でカルモチンによる心中自殺を図ったことになっています。
 これは狂言であったとする説もあります。
 後に太宰はこの心中行を主題とした小説『姥捨』を書くことになります。

 その後、太宰は碧雲荘に戻り、初代は近くの井伏家に滞在し、別居生活となりました。
 太宰が将棋を指しに来ると、初代を隠すのが大変だったそうです。
 初代は結婚の継続を望みましたが、太宰はこれを拒否しました。

 6月に入り、初代の叔父の吉沢佑が間に入り、6月10日に初代との別離が決定し、21日、太宰は碧雲荘を引き払い、鎌滝に転居しました。
 7月10日、初代は青森に帰り、浅虫温泉で母と弟誠一と暮らし、魚屋を手伝ったそうです。

 このように太宰と初代が波乱の時代を過ごした碧雲荘ですが、老朽化のため取り壊しの危機にさらされているそうです。
 現在、土地は杉並区が所有していますが、区はそこに特養ホームを建てるつもりとか。

 このような文化史跡は、必ず残す必要があります。
 津軽にはいくつかの太宰史跡が残され、記念館として開館されていますが、東京の太宰史跡はここだけとか。
 小館善四郎が初代との不貞を告白した便所とか、実際に見てみたくありませんか (^_^ゞ?


『富岳百景』
 三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆しつくし、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟つぶやきのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。
 
 
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