ジュネーブ・エリザベート紀行 
6) 后妃エリザベート死への道 07年4月30日(月)

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 さて、后妃エリザベート死への道を歩いてみましょう。
 ここからの記載は信頼する教科書、「麗しの后妃エリザベト」(ジャン・デ・カール)に従います。

 この時期、エリザベートはモントルー郊外のコーに滞在していました。
 1898年9月9日(金)、彼女はジュリー・ロートシルト(ロスチャイルド)男爵夫人の招きで、ジュネーブに近いプルニーを訪れました。
 そして、その夜はジュネーブのホテル・ボー・リヴァージュに宿泊しました。
 この旅は「ホーエンテンプス伯爵夫人」という偽名でのお忍び旅行でしたが、朝刊に「オーストリア后妃エリザベートがホテル・ボー・リヴァージュに滞在中」という記事が出てしまいました。

 1898年9月10日(土)午後1時半、エリザベートは女官イルマ・シュターレイ夫人とともに、ホテル・ボー・リヴァージュを出ました。
 この日はモンブランが綺麗に見えていたそうです。

ホテル・ボー・リヴァージュ 玄関 絵葉書 この白い山がモンブラン ↑


 ホテル・ボー・リヴァージュの玄関に立ち、蒸気船の出るモンブラン埠頭方向を見ます。
 横断歩道を渡った大きな木が立っているところが「ブランズヴィック公記念碑」です。

ホテル玄関からモンブラン埠頭方面を見る ブランズヴィック公記念碑
  ブランズヴィック公騎馬像


 車の通行量の多い道路を横断して、湖岸の遊歩道をモンブラン埠頭へ向かって歩きます。
 この道のどこかで、彼女はイタリア人テロリスト、ルイジ・ルケーニに襲われたのです。

 モンブラン埠頭手前の、歩道の手すりにそのプレートはありました。
 この通行人が誰も見向きもしないプレートを確認するために、僕は日本からやってきたのです。
 フランス語なので何が書いてあるのか分かりませんが、この場所で彼女がルケーニに尖ったヤスリで左胸を刺されたことは間違いありません。

 周囲を見回しながら、彼女が最後に見た景色を確認します。
 我ながら健気だと、自分で自分を誉めてやりたかったですよ (^_^) 。

モンブラン埠頭への遊歩道 モンブラン埠頭に近づくと
手すりにプレートがある プレートにはELISABETHの名前が


 ルイジ・ルケーニはパリ生まれのイタリア人アナーキスト。
 当時25歳で、ローザンヌの郵便局で働いていました。
 「誰でもいいから高位高官を狙っていた」とのことで、最初の狙いはジュネーブに滞在していたフランス王位継承権を持つオルレアン公でしたが、彼は帰国してしまったので、次にエリザベートが襲撃の目標となりました。

 先のとがったヤスリで刺されたため出血も少なく、エリザベートは何事もなかったようにジュネーブ号に乗り込みましたが、そこで意識を失いました。
 ヤスリが刺さった心臓の傷から血液が徐々に漏れ出し、心臓を圧迫して(心タンポナーデ)ショック状態を引き起こしたわけです。
 最後の言葉は「わたくし、どうしたんでしょう?」。

 服をゆるめようとしたシュターレイ夫人が胸の刺傷に気付き、船は埠頭に戻り、急造りの担架に乗せられたエリザベートは、ホテル・ボー・リヴァージュに運ばれました。
 そして駆けつけた医師によって、2時40分、死亡が確認されました。
 享年61歳でした。

二人と埠頭の位置関係がおかしい ウィーン王宮・シシィ博物館にあるヤスリ

 フランツ・ヨーゼフがシェーンブルン宮殿で凶報を聞いたのは午後4時半。
 エリザベートの遺体はスイスの法律にのっとって翌11日解剖され、15日にウィーンに戻りました。
 葬儀は9月17日に行なわれ、棺はカプツィーナー教会のカイザーグルフトに納められました。
 
 
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