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シュヴァルツシュパニエル通りからヴェーリンガー・シュトラーセに出て左に歩くと、「コジ・ファン・トゥッテの家」があります。 彼はこの家でオペラ 《コジ・ファン・トゥッテ》や三大交響曲を作曲したそうです。
ヴェーリンガー・シュトラーセをなおも進むと、左手にヨゼフィーヌム(医学史博物館)があります。
まずは階段に並べられた有名教授の写真から。 知らない人もいるんですが (^_^ゞ。 ヘブラ(皮膚科医)、ゼンメルワイス(産婦人科・手荒い励行で有名)、ロキタンスキー(病理解剖)、スコダ(診断学)、チュルク(チュルク液?)、ラントシュタイナー(ABO血液型)
2階が展示室になっておりまして、いろいろな資料が展示されていましたが、まずはビルロートが世界で最初に成功した胃切除術の標本から。 1881年1月29日、ビルロートは世界で最初の胃切除術に成功しました。 しかし、患者の女性は4月下旬に食事が摂れなくなり、5月24日に胃ガンの再発で死亡しました。 展示室にはビルロートが最初の手術時に摘出した胃病変部と患者死亡後に剖検で採取された胃全体の2つの標本が並んでいます。 標本はホルマリンのために白くなっており、断端は絹糸で縫合されていました。
もう一つはゼンメルワイスのコーナー。 ゼンメルワイスはウィーン大学医学部に進学し、ウィーン総合病院の産科に勤務しました。 やがて彼は、医師や学生が受け持つ第一診療棟の女性の方が、助産婦が受け持つ第二診療棟の女性よりも、産後の産褥熱による死亡率が高いことに気づきました。 彼はその原因を検死解剖室から出てくる医師や学生の手を介して伝えられた「死体のような粒子」だと考えました。 当時は手術や処置の前に手を洗う習慣は無く、素手で解剖を行なった後、手についた膿を布でぬぐって、出産にたち合う事もしばしばでした。 ゼンメルワイスは1847年5月15日付けで、解剖室から出てくるすべての医師や学生に塩素水で徹底的に手を洗うことを命じました。 その結果、第一診療棟での産褥熱による死亡率は劇的に低下しました。 しかし、彼は手洗いを強制する暴君として憎まれ、産科から追放され、失意のうちにブダペストに戻ることになりました。 その後、彼はブダペスト大学の産科教授となり、再び産褥熱との戦いを始めますが、彼の叫びは認められませんでした。 空しい努力の末、やがて彼は精神を病むようになり、彼の妻から相談を受けた恩師のヘブラ教授(皮膚科医・上に写真あり)によって、ウィーンの精神病院に入院させられました。 そして、長い間の狂乱状態を経て、1865年8月14日に47歳で死亡しました。 ヨゼフィーヌムには彼が使った手洗いの道具が展示されていましたが、何と言うことはない水差しでしたが、これに彼は一生をかけたのか、と感慨深かったですね。 ブダペストの「ゼンメルワイス記念館」には行ったことがあります。
ワックスモデルが展示された部屋もありまして、人体モデルや皮膚病の状態が蝋人形で精密に再現されており、とても気味が悪かったです (^_^ゞ。 中でも目を引かれたのが、ガラスの箱に入った若い女性の実寸大のワックス人形。 石田純郎さんの「ヨーロッパ医科学史散歩」(考古堂)によれば、この人形はヴィーナスと名付けられているそうです。 若い美人が胸から腹にかけて切り裂かれ、内蔵を露出させて横たわっているんですから、実に魅力的です (^_^ゞ。 ヴィーナスはゼンメルワイス記念館にもありましたが、顔の向きとかが異なっており、一つ一つが手作りされたもののようでした。
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