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◇上有知(こうずち)・美濃市 飛騨高山のお殿様だった金森長近(78歳)は、関ヶ原の戦いの後、戦功として徳川家康から武儀郡(約一万二千石)と河内国金田三千石を拝領しました。 長近は上有知を所有すると尾崎丸山の地に新城を築きました。 これが小倉山城です。 長近は越前大野や高山の町造りの経験を生かして、城下町の町割をしました。 長近はまた地場産業の発展にも努力して紙市・桑市の繁昌など城下町の発展とともに経済の繁栄策にも意を注ぎました。 集まった美濃和紙などの物資は長良川に面した上有知湊から船で岐阜・桑名などへと運ばれ、町には次第に和紙問屋やいろいろな商売を営むものが増え、商家町として栄えました。
晩年、八十近い長近に男子が生まれました。 本領の飛騨は、既に養子である可重(ありしげ)が統治しており、長光と名づけられたこの男子は上有知を相続することとなりました。 しかし、長光は五歳で死亡し、幕府は所領を金森家から没収してしまいました。 一方の飛騨金森家は、6代頼時(よりとき)の時、出羽上ノ山に転封となってしまいます。 そして、その5年後には、また郡上八幡に転封の命令が下りました。 上有知は明治44年(1911年)、美濃紙にちなんで「美濃町」と改名し、その後美濃市となりました。 美濃市は現在「うだつの上がる町」として売り出し中です。 「うだつ」とは、屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐために造られた防火壁のことで、美濃市には日本で最も多くこの「うだつ」が残っています。 裕福な家しか「うだつ」を造ることができなかったため、庶民の願望から「うだつを上げる・うだつが上がらない」の言葉もできました。 旧今井家住宅が公開されており、往時の繁栄を今もとどめています。 庭には水琴窟があり、繊細な音を奏でていました。
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