多摩紀行(9) 国立市 国立高校 (南木佳士の母校)
2004年4月11日

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 僕は、平成元年『ダイヤモンドダスト』で第百回芥川賞を受賞した作家であり、佐久総合病院の内科医でもある南木佳士の作品が好きで、彼の小説に出てくる土地を訪ねています。
 昨年の秋には佐久総合病院と彼が生まれた群馬県の嬬恋村に行ってきました。
 今回訪れるのは彼が卒業した国立市の国立高校です。

 南木佳士は昭和26年、群馬県嬬恋村三原に生まれました。
 3歳で小学校の教師をしていた母親を肺結核で失い、再婚した父親と離れ、嬬恋村で母方の祖母に育てられました。
 中学2年の春に、父親の転勤について保谷市立保谷中学校に転校し、社宅で父親継母と3人で暮らしました。
 2年生から3年生にかけてサッカー部のウィングとして活躍した話も、彼の作品によく出てきます。
 昭和42年に都立国立高校入学。
 この年から導入された学校群制度のため、第一志望の立川高校には入れませんでした。

JR国立駅 駅前から「大学通り」を望む
桜も散りかかった大学通り 花が咲き、洒落た店が並んでいる


 国立市は西武の創始者である堤康次郎が、一橋大学を中心とする理想の学園都市を築くため、大正末期に武蔵野の雑木林100万坪を切り開いて作った街です。
 JR中央線国立駅前から幅44メートルの「大学通り」が、南武線谷保駅まで1.2キロメートルにわたって真っ直ぐに伸びています。
 「大学通り」の道路の両横には幅9メートルの緑地帯があり、春には桜が咲き、秋には銀杏が金色に輝く、ヨーロッパの町並みを彷彿とさせる景観となっていて、カフェやブティックなど洒落た店が並んでいます。
 エッセイ集『臆病な医者』には、「一橋大学の古いレンガ作りの建物を見ながら銀杏の緑陰と落ち葉に包まれて広い歩道を通学していたのだから、ものを想うなというほうが無理だった。国立は私の作家としての故郷である」と書かれています。

 JR国立駅から国立高校までは、途中に「一橋大学」「桐朋」「国立高校前」とバス停があるように、思ったより遠く、疲れ切った足にはこたえました。
 国立高校の生徒は、この道をバスに乗らずに20分かけて歩く(もしくは走る)のだそうです。

一橋大学 桐朋高校・中・小


 国立高校の正面から見る校舎は新しく、建て替えられているようです。
 ブレザーを着た学生を見かけましたが、南木佳士の時代には制服はなかったそうです。
 高校の敷地は細長く、一回りするのも大変です。
 彼は高校でもサッカーには熱中していたようで、このグラウンドを走り回ったのでしょう。

 3年生になると一橋大学にヘルメットをかぶった学生の姿が目立つようになりました。
 昭和44年は安田講堂攻防戦で、東大入試が中止になった年です。
 彼は昭和45年に国立高校を卒業しましたが、エッセイ「ゆるやかな助走」(ふいに吹く風)によれば、この街は彼にとっては「似合わない背景の舞台」だったそうで、卒業してから20年、この街を訪れることはなかったと書いています。

国立高校正面 グラウンド


 現役での医学部受験は数学の出来が悪くて浪人。
 お茶の水の予備校(駿台予備校?)に通い、必死に勉強。
 昭和46年に絶対安全と言われた一期校の千葉大学医学部を受験するも不合格となり、都落ちして二期校の秋田大学医学部に入学。
 毎日泣いて暮らしたということです。
 

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